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第三巻 涼宮ハルヒの退屈

【Volume 3 — Suzumiya Haruhi no Taikutsu】

CONTENTS

プロローグ
涼宮ハルヒの退屈
笹の葉ラプソディ
ミステリックサイン
孤島症候群
あとがき

プロローグ

 涼宮ハルヒと言うよりは俺が憂鬱だったのではないかと思われるSOS 団発足記念日は
思い起こせば春先のことであ り、やはりハルヒではなく俺がすっかり溜息づくしだった
自主映画撮影にまつわる出来事はいちおう暦上で秋になってのことだった。
 その間約半年の時間が経過しているのも当然ながら、夏休みを挟んだその半年間にハル
ヒが手をこまねいて時が過ぎる ままに任せているわけもなく、当たり前のように俺たち
は理不尽かつわけの解らない事件とか事件なのかどうかも解らない事件モドキみたいなも
のにさんざん巻 き込まれていたのは言うまでもないだろう。
 何と言っても季節が季節だ。気温の上昇とともにそこら中から虫がやたら出てくるのと
同様に、ハルヒの頭の中からも 謎のような思いつきがまろび出て、出てくるだけならま
だしもその思いつきを俺たちの手でもって何とかしなければならないという不条理な事態
が待ち受けてい たのは、ホントどうしたものだろうね。
 古泉や長門や朝比奈さんがどう思っているのかはよく解らないが、少なくとも俺の自覚
症状としては気力体力充分なパ ラメータを保持しているにもかかわらず、何だかすっか
り腹一杯喰いすぎて自重では動けなくなった小さくて丸っこい動物のような気分を毎度の
ように味わわさ れていて、こうなれば最後、坂道をコロコロ転がり落ちるだけである。
 今も転がっている最中なのかもしれないな。
 なんせハルヒは頭の中が常に愉快な事で満たされていないと決まってロクでもないこと
を考え始めるという他人にすれ ば迷惑この上ない習性を持っている。とにかく何もしな
くていい、みたいな状況が我慢ならないらしい。何もないなら無理矢理することを探し始
めるような奴な のだ。そうして俺の 経験上、ハルヒが何かを口走って俺たちが安寧の心
地に浸ったことはない。これからもないかもしれない。なんてヤツだ。
 いい悪いは別にして、何よりも退屈を嫌う女、それが涼宮ハルヒであった。
 というわけで憂鬱が溜息に移り変わる間の半年間、俺たちSOS団がこうむることに
なった退屈しのぎのアレやコレや をせっかくなのでここで紹介したい。何がせっかくな
のかは俺にだって知れたことではないが、語っても損をすることはないだろうし、せめで
誰か一人にでも俺 の抱えることになったこの名状しがたい気分を共有してもらえたら本
望だ。
 そうだな……、まずあのマヌケな野球大会のことから始めようか。

涼宮ハルヒの退屈

 ある日の「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」、略してSOS団のアジト
(正確にはまだ文芸部部室) で、涼宮ハルヒは甲子園で一番クジを引いた野球部キャプ
テンの選手宣誓のような溌剌さとともに高らかに宣言した。
「野球大会に出るわよ!」
 六月であり、放課後であった。あの、俺にとっては悪夢のような事件から二週間後のこ
とでもあり、おかげでろくすっ ぽ勉強に集中できなかったため悪夢そのものだった中間
試験の結果が返りつつある初夏の頃でもあった。
 そのくせハルヒはどう控えめに見ても全然授業を真面目に聞いていないのに一人で成績
学年ベスト 10 に名を連ねてい るのだから、この世に神がいるのだとしたら、そいつには
人を見る目がまったくないか、よほどの根性悪に違いない。
 ……まあ、そんなのはどうでもいいんだ。今、ハルヒが叫んだセリフのほうがよほど問
題だ。
 なんつった、今こいつ?
 俺はこの部屋にいる俺以外の三つの顔を見回した。
 最初に見たのは、中学生みたいな童顔の上級生、朝比奈みくるさんだった。白い羽を背
中に付けたら今にも天へと帰っ ていきそうな顔立ちの、とんでもなく可愛いお方である。
そのお顔と小柄な身長に似合わず、これまたとんでもなくグラマラスであることを俺は
知っている。
 なぜか唯一この高校の制服を着ていない朝比奈さんは現在、薄ピンクのナース姿に身を
まとい、麗しい唇を形良く半開 きにしてハルヒを見つめていた。彼女がナースの恰好を
しているのは看護学生でもなければコスプレマニアというわけでもなく、単なるハルヒの
指令によるもの だ。またどこかの怪しいネット通販で入手したのだろう、ハルヒが持っ
てきて強制的に朝比奈さんにあてがったのである。万人が思い浮かべるであろう「いった
いそれに何の意味があるのか?」という問いには、こう答えよう。
「ねーよ、んなもん」
 かつてハルヒは、「この部室にいる時は常にこの衣装を着ていなさい。絶対よ!」など
と命令調で明言し、朝比奈さん は「そそ、そんなぁ……」と、半泣きになりつつも生真
面目に言いつけを守っているのだった。あまりのいじらしさに時々後ろから抱きつきたく
なるほどだった が、まだやったことはない。誓ってもいい。
 ちなみに二週間ほど前はメイド服が標準で、今もそのメイド衣装は部室の片隅でハン
ガーに掛けられてぶら下がってい る。こっちのほうが可愛いし似合っているし俺の趣味
に合致しているので、そろそろ原点に回帰して欲しいと俺は考えている。たぶん、朝比奈
さんならリクエス トに応じてくれるだろう。悩ましくも恥じらいながら。うん、実にい
いね。
 その今はナースの朝比奈さんは、野球がどうしたとかいうハルヒの宣言を聞いた後、
「え……?」
 カナリアの挨拶のような可愛らしい声でリアクションしたきり、絶句を続けている。無
理もない反 応だ。
 俺は次に、この場にいるもう一人の女子の顔へと視線を向けた。
 背丈は朝比奈さんとどっこいどっこいだが存在感ではヒマワリとツクシくらいの違いが
ある長門有希は、いつものよう に何も聞こえていないかのごとく、分厚いハードカバー
を開いたままページからまったく視線を逸らさない。数十秒おきに指が動いて頁をめくる
ので、ようやく こいつが生きていることが解るくらいだ。日本語を覚えたてのセキセイ
インコでももう少し喋るだろうし、冬眠中のハムスターでもこいつよりは身動きすると思
うね。
 いてもいなくても同じような奴なので別に力を入れて描写するところでもないのだが、
一応紹介しておくと、こいつは 俺やハルヒと同じ一年生で、この部室が本来所属するク
ラブの生徒、一人しかいない文芸部員だ。つまりSOS団なる我等が同好会は、文芸部の
部室に間借りと いうか実は寄生も同然にここを根城にしているのである。もちろん学校
側の承認はまだ受けていない。この前出した創部申請書は生徒会から門前払いをくらっ
た。
「…………」
 無反応な長門の顔をずらすと、その横に古泉一樹のニヤケハンサム面があった。面白そ
うな顔をして、俺に視線を投げ かけている。意味もなくむかつく。長門に輪をかけてこ
いつなんかどうでもいい。この謎の転校生男----もっとも謎がどうのと言っていたのはハ
ルヒだけ だったが----は、前髪をパサリと払って、いまいましいまでに整った顔を笑いの
形に歪めた。そして俺と目が合うと、殴りたくなるくらい様になるしぐさで 肩をすくめ
て見せた。殴って欲しいのか、こいつは?
「何に出るって?」
 誰も反応しないので、いつものように俺はしぶしぶハルヒに訊き返した。どうしてみん
な俺をハルヒの通訳係にしたが るんだ。迷惑この上ないぞ。
「これ」
 得意満面の表情でハルヒが俺に差し出したのは、一枚のチラシだった。チラシにいい思
い出のない朝比奈さんが密かに 身を縮めるのを視界の脇に捕らえながら、俺はその紙切
れに書かれている文字を音読する。
「第九回市内アマチュア野球大会参加募集のお知らせ」
 この市における草野球チャンピオンチームをトーナメント方式で決定しようとかなんと
か。主催は役所で、毎年おこな われている由緒正しい催しなのだそうだ。
「ふーん」
 と、俺は呟いて顔を上げた。ハルヒの輝かしいまでに朗らかな顔がスマイル百%で至近
距離にあった。俺は思わず半歩 ほど後ずさり、
「で、誰が出るんだ、その野球大会に」
 解ってはいたが訊いてみた。
「あたしたちに決まってるじゃない!」とハルヒは断言してくれる。
「その『たち』というのは、俺と朝比奈さんと長門と古泉も入っているのか?」
「あたりまえじゃないの」
「俺たちの意思はどうなるんだろう」
「あと四人、メンツを揃える必要があるわね」
 例によって自分に都合の悪い話が耳に届かない奴である。ふと思いついた。
「お前、野球のルール知ってるのか?」
「知ってるわよ、それくらい。投げたり打ったり走ったり滑り込んだりタックルしたりす
るスポーツよ。野球部に仮入部 したこともあるから、一通りはこなしたわ」
「仮入部って、何日くらい行ってたんだ」
「一時間弱かしら。てんで面白くなかったからすぐに帰ったけど」
 その面白くなかった野球大会に、なぜ今更しかも俺たちが出場しなければならないのか。
あまりに当然の疑問に対し、 ハルヒは次のように答えた。
「我々の存在を天下に知らしめるチャンスだわ。この大会で優勝したら、SOS団の名前
が一人歩きしていくきっかけに なるかもしれないじゃないの。いい機会よ」
 こんな団の名がこれ以上耳目を集めることだけは勘弁してもらいたいし、だいたい一人
歩きさせてどうするつもりなん だ。何が、いい機会、なんだ。
 俺は困り果てていたし、朝比奈さんも困っていた。古泉は「なるほどなるほど」などと
呟き つつ、ちっとも困った 顔を していない。長門は困っているのかどうなのか、ひょっ
としたら話すら聞いていないのかもしれないが、いつもの無機質な表情で陶器のように固
まっていた。
「ねっ、ナイスアイデアでしょ? みくるちゃん」
 いきなり振られて、朝比奈さんはうろたえつつ、
「えっ? えっ? でででも……」
「なにかしら?」
 水辺で水を飲む子鹿に近づくアリゲーターの動きでハルヒは朝比奈さんの背後に回ると、
腰を浮かせていた小柄な看護 婦もとい看護師姿にいきなり後ろから抱きついた。
「わきゃ! ななな、何を何を……!」
「いい、みくるちゃん、この団ではリーダーの命令は絶対なのよ! 抗命罪は重いのよ!
何か意見があるなら会議で聞 くわ!」
 会議? いつも一方的にハルヒがわけの解らんことを俺たちに押つけるために開かれる
ミーティングみたいなやつのこ とか?
 ハルヒはもがく朝比奈さんの首に白蛇みたいな腕を絡めつつ、
「いいでしょ野球。言っとくけど狙うのは優勝よ! 一敗も許されないわ! あたしは負
けることが大嫌いだから!」
「わわわわわ……」
 朝比奈さんは目を白黒させながら顔を赤くしてぶるぶる震える。スリーパーホールドす
れすれの抱きつき技で拘束し朝 比奈さんの耳をはむはむ噛みながらハルヒは、うらやま
しい想いが顔に出ていたんだろう、俺をじろりと睨みつけた。
「いいわね!」
 いいも悪いも、どうせ俺たちが何を言っても無視するつもりのくせに。
「いいんじゃないですか」
 古泉が同調しやがった。
 おいおい、そんな爽やかに賛成票を投じるな。たまには反論の一つでもしてやれよ。
「じゃっ、あたし、野球部行って道具もらってくるから!」
 小型竜巻のような勢いでハルヒが飛び出していき、解放された朝比奈さんは椅子の背も
たれにへたり込み、古泉は述懐 した。
「宇宙人捕獲作戦やUMA探索合宿旅行とかじゃなくてよかったじゃないですか。野球で
したら我々の恐れている非現実 的な現象とは無関係でしょう」
「まあな」
 この時は俺もいったん納得した。いくらハルヒでも野球するのに宇宙人や未来人や超能
力者が必要であるなどとは言い 出すまい。ならば発見できるはずのない超常現象を探し
て町中をうろうろするより(SOS団のメイン活動がそれなのだ)、草野球に興じている
ほうが多少はマ シかもしれん。朝比奈さんもコクコクうなずいているし。
 結果的にその推測の矢は完全に的を外し、外しただけだったらいいのだがその的の掛
かっていた壁を貫通してどこまで も飛んでいくことになったのだが、そのことを俺が悟
るのはもうちょい後だ。
 ようするに、と俺は思う。野球でなくても、自分の目を引くものなら何だってよかった
んだろう。第一、ハルヒによっ て旗揚げされたSOS団という恥ずかしい名称を持つこ
の同好会未満の非公認学内団体自体がすでにこいつの単なる思いつきの産物である。なん
せ正式名称が 「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」というやたら長い上に
恐ろしく独りよがりで抽象的という謎の 団なのだ。もっと小マシなネーミングにしよう
とした俺の目論見はあえなく玉砕し、爾来、改名の機会は訪れていない。
 以前、それは何をするクラブなのかと訊かれたハルヒは、まるで敵将の首を討ち取った
足軽兵のような顔でこう答え た。
「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶことよ!」
 元から奇行で学内に轟いていた涼宮ハルヒの名が、完全に変人の代名詞として殿堂入り
確定となったセリフである。
 とまあ、こんな調子で、カラスが光物をちょろまかすように、猫が小さくてチョロチョ
ロ動く物体を見ると反射的に飛 びついてしまうように、台所でゴキブリを発見した人が
殺虫剤を探すように、たまたま見かけて気の惹かれたものならドッジボールでもゲート
ボールでもポート ボールでも何でも、「これする!」と言い出したことだろう。草ラグ
ビー大会じゃなかったことを喜ぶべきだったかもしれない。野球より大人数を揃えないと
い けないからな。

 つまりハルヒは、ただ退屈だったのだ。

 いったいどのような交渉の果てか、ハルヒは野球用具一式を抱えてつむじ風のように
戻っ てきた。小型 の捨て犬が入れられていそうな段ボールの中身は、ボロボロのグロー
ブ九個と、あちこちぼこぼこの金属バット、薄汚れた硬式ボールがいくつか。
「待て」
 と俺は言ってチラシをもう一度よく見た。
「これは軟式野球の試合だぞ。硬式を持ってきてどうするんだ?」
「ボールはボールでしょ、同じことよ。バットで叩いたら飛ぶわよ、絶対よ」
 俺だって野球なんか小学生の頃に校庭で遊んだとき以来だ。だが、軟式と硬式の違いく
らいは解る。硬式のほうが当た れば痛い。
「当たらないようにすればいいじゃない」
 お前が何を案じているのかさっぱり解らん、みたいな顔でハルヒは簡単に言った。
 俺はあきらめて、
「それで、その試合とやらはいつなんだ」
「今度の日曜」
「明後日じゃねえか! いくらなんでも急すぎるだろ」
「でも、もう申し込んじゃったし。あ、安心して、チーム名はSOS団にしといたから。
そのへんは抜かりないわ」
 俺は脱力して、
「……他のメンツはどこからかき集めるつもりだ?」
「そこらを歩いているヒマそうなのを捕まえればいいじゃない」
 これを本気で言っているんだからな。そしてハルヒが目を付けそうな人間は、一つの例
外を除いて、みんな普通ではな いのである。その数少ない例外は俺。そして俺は、これ
以上理解できない身の上の人間と知り合いになるつもりはない。
「解った。お前はじっとしてろ。選手集めは俺がする。とりあえず……」
 俺は一年五組の男どもの顔を思い浮かべる。俺が声をかけてついてくるような奴……。
谷口と国木田くらいだな。
 俺がそう言うと、ハルヒは、
「それでいいわ」
 自分のクラスメイトを「それ」扱いし、
「いないよりはマシでしょ」
 他の連中は涼宮ハルヒの名前を出した途端に逃げ出すだろう。えーと、あと二人どうす
るか。
「あのう」
 朝比奈さんが控えめに片手を挙げた。
「あたしのお友達でよろしければ……」
「じゃ、それ」
 ハルヒ即答。誰でもいいようだ。お前は何も知らないからいいかもしれんが、俺は
ちょっと気になる。朝比奈さんの友 達? いつどこの友達だ?
 疑問が顔に出たのをめざとく見つけたのだろう。朝比奈さんは俺に向かって、
「大丈夫です。このじ……けほん。クラスで知り合ったお友達ですから」
 安心させるようなことを言ってくれた。すると古泉が、
「では僕も友人を一人連れてきましょうか。実は我々に興味を抱いているある人物に心当
たりが----」
 とか言い出したので黙らせた。お前のツレなんか来なくていい。どうせけったいな野郎
に決まっている。
「俺がなんとかする」
 誰でもいいんなら、俺にも知り合いは他にもいる。ハルヒは鷹揚にうなずいて、
「じゃあ、まずは特訓ね、特訓」
 まあ、話の流れ上、そうなるのだろうな。
「今から」
 今から? どこで?
「グラウンドで」
 開けっ放しの窓から、おっしゃばっちこーい、とか言っているような野球部員たちのか
け声が小さく響いていた。

 ところで、いきなり言うのも何なんだが、実はこの部室に集っていた俺以外の四人はそ
れぞれにそれぞ れの理由で普通の人間じゃない。自分の実体に自覚皆無なのはハルヒだ
けで、他の三人は三人とも自分の正体を頼みもしないのに明かしてくれ、また俺に理解す
るよう促した。その三つの主張は俺の常識が地球あたりだとすると冥王星軌道の外くらい
を回っているような理解不能ぶりだったわけで、しかし俺は先月末に実 地を伴った体験
によって、どうもそれが事実っぽいことを知らされていた。知りたくもなかったが、いつ
のまにかハルヒの配下に組み入れられて以来、俺の希望 が通ったことはほぼないと言っ
ていい。
 単純に言えば、朝比奈さんと長門と古泉がこの学校に存在するのは、ハルヒがいるから
なのである。なぜか皆さん、ハ ルヒになみなみならぬ関心をお持ちのようだ。
 俺にはただのナチュラルハイ女にしか見えないが、そう思っているのは俺だけであって、
そんな俺の確信も少々揺らぎ つつある昨今である。
 誓って言おう。どうかしているのは俺の頭じゃない。
 世界のほうなのだ。

 そんなこんなで俺は、それぞれに常軌を逸した立場の他の団員とともに土埃舞う運動場
で立っていると いうわけだ。
 練習場所を追い払われた野球部員たちが迷惑そうに俺たちを見ている。当たり前だ。い
きなり珍妙な一団が現れたと思 うと、首領格の女がセーラー服を翻しながらバットを振
りかざして意味不明なことを叫び、あっけに取られているうちに野球部割り当てのグラウ
ンドスペースを 占拠され、何が何だか解らないうちに球拾いとボールトス係りになるこ
とを命令されてしまったのだから、これが迷惑でなくてなんだろう。
 おまけに俺たちは普通の制服姿で、ナースが一人混じっているような集団なのだ。
「最初は千本ノックね」
 ハルヒの予告通り、ピッチャーズマウンドあたりに横一列になった俺たちに、ノックの
雨が降り注いだ。
「ひー」
 朝比奈さんはグローブを頭にかぶってうずくまり、俺はそんな彼女の身体にボールがぶ
つからないように決死の覚悟で 白球に立ち向かう。それにしてもハルヒの打球はほとん
ど殺人的に鋭い当たりの連発だ。何をやらせても一丁前にこなしやがる。
 古泉はいつもの微笑みを浮かべつつ、けっこう楽しそうにノックをさばいていた。
「いやあ、久しぶりですよ。懐かしいな、この感触」
 ハルヒの乱れ打ちを軽やかなステップで処理しながら、古泉は白い歯を俺に向けた。そ
んな余裕があるなら、朝比奈さ んをかばってやってくれ。
 長門はと見れば、棒立ち状態で正面を向いていた。自分に向かって飛んでくるボールに
も委細かまわず、ただ突っ立っ ている。耳の横数ミリを掠める球にも微動だにしない。
たまにラジコンみたいな動きで左手にはめたグローブをゆっくり動かし、直撃コースを取
る打球だけを キャッチしてはポトリと落とす。もうちょっと動けよ。それとも動体視力
の良さを褒めてやるべきだろうか。
 他人を気にしていたのが悪かったか、イレギュラーバウンドした硬球が俺のグラブを掠
め股下を抜き、朝比奈さんの膝 小僧を直撃してしまった。不覚。
「わきゃあ!」
 朝比奈ナースバージョンさんは悲鳴を上げて、
「痛いー……ですー」
 しくしく泣き始めた。もう見てられん。
「後を頼む」
 俺は古泉と長門に言い残し、朝比奈さんに介添えして、白線の外に出た。
「こらぁ! どこ行くのよ! キョン! みくるちゃん! 戻りなさぁい!」
「負傷退場だ!」
 ハルヒの制止に手を挙げて、俺は朝比奈さんの腕を取りつつ保健室へ
向かった。埃っぽい部室や、荒れたグラウンドよ り、ナース服が似合う
ことだけは間違いない。
 片手を目に当てて涙に濡れた瞳を隠していた朝比奈さんは、廊下を歩いている最中にす
がりついている相手が俺だと気 付いたようで、
「きゃっ!」
 録音しておきたいくらい可愛い声を出しつつ飛び退き、うっすらと赤くなった顔で俺を
見上げた。
「キョンくん、だめ、わたしと仲良くしたりなんかしたら……、また……」
 また、どうなるんでしょうね。俺は肩をすくめて、
「朝比奈さん、もう帰っちゃっていいですよ。ハルヒには、足の打撲で全治二日と言って
おきます」
「でも……」
「いいんですよ。悪いのはハルヒです。朝比奈さんが気に病む必要はありません」
 手をヒラヒラさせながら俺は言った。朝比奈さんはうつむき加減に俺を上目遣いで見る。
涙目 が色っぽさ二倍 増しだ。
「ありがとう」
 腰砕けそうになる可憐な微笑みを投げかけて、朝比奈さんは名残惜しそうに振り返り振
り返り、その場を去った。ハル ヒもこの健気さを見習えないもんかね。いい感じになる
と思うのに。

 グラウンドに戻ると、シートノックはまだ続いていた。呆れたことに、守備についてい
るのは野球部員 たちで、古泉と長門はバックネット裏でぼんやり立っている。
 俺に気付いた古泉が快活な笑顔で
「やあ、どうも。お帰りなさい」
「何やってんだ、あいつは」
「見ての通りです。どうも我々では手応えがなかったようでしてね、先ほどからあの調子
です」
 まさに広角打法。ハルヒは宣言した通りのポジションに宣言した通りの球を打ち込んで
いた。
 俺たち三人はすることもなく、延々とハルヒのナイスバッティングを鑑賞し、このイカ
レ女がやっとバットを置いて 満足そうに額の汗を拭うあたりまで付き合った。古泉が愉
快そうに言う。
「驚きですね。本当にちょうど千本ぴったりですよ」
「そんなもん数えているお前のほうが驚きだよ」
「…………」
 無言で長門はきびすを返し、俺もそれに倣った。
「なあ」
 俺は小柄なセーラー服姿の横顔に提案した。
「試合当日だがな、雨を降らせてくれないか。雨天中止になりそうな、デカイやつを」
「できなくはない」
 長門は淡々と歩きながら言った。
「ただし推奨はできない」
「なぜだ?」
「局地的な環境情報の改竄は惑星の生態系に後遺症を発生させる可能性がある」
「後遺症って、どれくらい後だ」
「数百年から一万年」
 えらく遠大な話だな。
「じゃ、やめといたほうがいいな」
「いい」
 五ミリほどうなずいて、長門は決まり切った歩調で歩き続けた。
 背後を振り返ると、ハルヒは制服のままマウンドに上がって、投げ込みを開始している
ところだった。

 二日後。日曜日。午前八時ちょうど。
 俺たちは市営グラウンドに集合した。陸上競技場に隣接する野球場は合計二つ。一回戦
は五イニングまで。夕方までに ベスト4を決め、準決勝と決勝は来週の日曜日にやると
いう二週がかりの大会だ。出場チームは無数だが、どうにも場違いなことに、全員学校の
ジャージで集 まっているのは俺たちのチームくらいであって、他の参加者たちはほとん
どがちゃんとした野球のユニフォームを着ていた。関係ないが長門の制服以外の姿を俺
はこのとき初めて見た。
 後で聞いたのだが、この草野球大会はけっこうな歴史を持つ(九回目だけど)それなり
に真面目なトーナメント戦らし い。だったらハルヒが受付に来た段階で断って欲しかっ
た。
 ちなみに谷口と国木田は電話一本、二つ返事で快諾した。谷口は朝比奈さんと長門目当
てで、国木田は「なんか面白そ うだね」と参加を決めやがった。、単純な奴らで助かる。
 朝比奈さんが連れてきた助っ人の二年生は鶴屋さんとおっしゃる、かつてのハルヒくら
いに髪の長い元気な女の人で俺 を見るなり、
「キミがキョンくん? みくるからよっく聞いてるよっ。ふーん。へえーっ」
 などと言って、朝比奈さんをなぜか慌てさせた。何を言われているんだろう、俺。
 そいでもって俺が連れてきた第四の選手は、今、ハルヒとにらめっこをしている。
「キョン、ちょっと来なさい」
 ハルヒは俺を剛腕でもって大会本部テントの脇に連れて行くと、
「何考えてんの、あんた。あんなのに野球やらせる気なの?」
 あんなのとは失礼な。あんなんでも、俺の妹だぞ。
「小学五年生、十歳って自己紹介されたわ。あんたの肉親と思えないほど素直そうな子ね。
いいえ、そんなことよりね、 リトルリーグ部門ならいいけど、あたしたちが出るのは一
般部門なのよ!」
 俺だって何も考えずに妹を連れてきたわけではない。これでも深謀遠慮した結果なので
ある。俺はこう考えたのだ。実 のところ、俺はせっかくに日曜日に朝っぱらから起きだ
して運動するなんて全然乗り気ではないのである。本日ここまで来てしまったのは不可抗
力のたまもの だ。ならばせめてこの乗り気のしない時間を一刻も早く終わらせたいと感
じるのは当然の心理的働きで、ようはとっとと負けてさっさと帰ってしまえばいいの だ。
妹を混ぜなくてもこのメンツならまず一回 戦での敗北は確実だが、万が一と言うことがあ
る。こっちを率いているのは誰あろう涼宮ハルヒだからな。まかり 間違って優勝でもし
てしまったら、また面倒なことになるような気がする。確実に負ける要因を入れておく必
要があるだろう。ドシロウトの小学生女子を入れて おいたら、これは間違いなく負ける。
勝つほうがおかしい。
 ハルヒには言えないが、俺は俺なりに人並みの脳味噌を持っているのである。
「ふん、まあいいわ」
 ハルヒは鼻を鳴らしてそっぽを向き、
「ちょうどいいハンデね。あんまりボロ勝ちしても悪いし」
 どうやら勝つつもりらしい。どうやってだろう。
「ところでだな。まだ打順も守備位置も決めてないんだが、どうするんだ」
「ちゃんと考えてきたわ」
 満面に得意という言葉を浮かび上がらせて、ハルヒはジャージのポケットから紙切れを
取り出した。メンバーを今日初 めて知ったのに、何を基準に決めたのかと思っていたら、
「これで決めたら文句ないでしょ」
 紙に描いてあるのは八本の線。それが二枚。俺の目には作りかけのアミダクジに見える
が、錯覚か?
「何言ってんの? アミダに決まってるじゃないの。打つ順番と、守るところの二種類ね。
それから、あたしはピッ チャーで一番だから」
「……おまえが考えたのは、決める方法だけか」
「なに、その顔。なんか不満あんの? 民主的な方法でしょ。古代ギリシャじゃクジ引き
で政治家選んでたのよ!」
 古代ギリシャの政治制度と現代日本の草野球の打順を一緒にするな。しかもお前だけ自
分の好きなようになってるじゃ ないか。それのどこが民主的だ。
 ……まあ、いいか。余計に早く負けることができそうだ。さっきルール説明を聞いたと
ころ、十点差が付けばその時点 でコールドゲームらしい。今のうちに帰り支度でもして
おこう。なんせ、一回戦の相手は去年まで三年連続ディフェンディングチャンピオンの優
勝候補筆頭だし な。
 上ヶ原パイレーツ。近所の大学の野球サークルである。どちらかと言えば硬派に属する
サークルのよう だ。シリアスだった。全員が勝ちにきていた。試合前の簡単な練習でそ
れが解った。皆さん、気合が入りまくりの大声を出しつつ、バックホームの連携や、ダブ
ルプレーのフォーメーション確認までしている。本格的だ。端的に言うと目の色が違うっ
て奴だ。俺たちは間違った場所に来てしまったんじゃないだろうかと一 瞬周囲を見渡し
て、ここが野球大会開催地である市営グラウンドであることを再確認しなければならな
かったほどである。
 負けちまえばいいとは思っていたが、だんだん現実から逃避したくなってきた。相手
チームに謝りたくなってくるほ ど、こっちのチームはしょぼいのだ。
 俺が敵前逃亡の方策を練っていると、ハルヒが一同を整列させて、
「作戦を授けるわ。みんな、あたしの言うとおりにしなさい」
 監督みたいなことを言い出した。
「いい、まず何としてでも塁に出るのよ。出たら、三球目まで盗塁ね。バッターはストラ
イクならヒットを打ってボール なら見逃すの。簡単でしょ? あたしの計算では一回に
最低三点は取れるわね」
 ハルヒ頭脳の計算によればそうなるらしいが、この自信の根拠はどこから来るものなの
だろう。もちろんどこからも来 てなどいない。根拠のない自信を体現した存在、それが
こいつなのである。しかし、世間ではそういう奴のことを「バカ」と言うのではないだろ
うか。そしてこ いつはただのバカではない。バカ世界的食物連鎖の頂点に君臨する、バ
カの女王なのだ。
 アミダクジ神の宣託によって決定した我が『チームSOS団』のスターティングメン
バーをお知らせしておこう。
 一番、ピッチャー、涼宮ハルヒ。二番、ライト、朝比奈みくる。三番、センター、長門
有希。四番、セカンド、俺。五 番、レフト、妹。六番、キャッチャー、古泉一樹。七番、
ファースト、国木田。八番、サード、鶴屋さん。九番、ショート、谷口。
 以上である。補欠なし。マネージャーもなし。応援もなし。

 整列して挨拶の後、さっそくハルヒがバッターボックスに入った。ヘルメットの存在を
すっかり忘れて いた我々は、運営委員会からセコハンの白ヘルを借りていた。自前のも
のと言えば、ハルヒが人数分持ってきた黄色のメガホンくらいである。
 ツバをついと指で上げ、ハルヒは野球部からパクってきた金属バットを構えながら不敵
に微笑んだ。
 プレイボールを審判がコールし、敵チームのピッチャーがワインドアップモーションに
入る。
 その第一球目。
 コキン。
 小気味よく金属音が響き、白球がぐんぐん飛距離を稼ぐ。猛バックするセンターの頭上
を抜いて、フェンスにワンバウ ンドで直撃。ボールが内野に返った時、ハルヒはすでに
セカンドベースに到達していた。
 別に驚きはしなかった。ハルヒならこれくらいのことはする。朝比奈さんと古泉も同意
見だろうし、長門はたぶん驚く という感情がない。だが、俺たち四人以外のメンツは例
外なく驚きの表情で、ガッツポーズを繰り返すハルヒを眺めていた。特に敵チームが。
「ピッチャー全然大した球じゃないわよっ! あたしに続きなさい!」
 ハルヒが威勢よく叫んでいる。が、これは完全に逆効果だった。どうやらバッテリーは
女だからと言って手加減する気 分は早くも絶無になったようだ。
 二番手の朝比奈さんがぶかぶかのヘルメットをかぶって、おずおずという感じでバッ
ターボックスに立つ。
「よ、よろしくお願い----し、ひん!」
 言い終わらないうちにインコース高めに直球が決まった。なんて野郎どもだ。朝比奈さ
んにデッドボールをかましたら 承知せんぞ。即、乱闘だ。
 続く二球目を、朝比奈さんは地蔵と化して見送った。バッターアウトの宣告を受けると、
ホッとしたようにベンチに 戻っ てくる。
「こらーっ! 何でバット振らないのよ!」
 ハルヒが何か言ってるが、放っておけばいい。朝比奈さんが無事で何よりだ。
「…………」
 三番は長門。金属バットの先端を地面に引きずりながら黙々と打席に向かい、
「…………」
 すべての球を見逃して、あっさり三振、また黙々と戻ってくる。そしてネクストバッ
ターボックスの俺に、
「…………」
 メットとバットを手渡し、黙々とベンチに座って、元通りの置き人形になった。
 ハルヒの怒声がやかましい。まあ、朝比奈さんや長門に期待するほうが間違いだ。
「キョン! あんた絶対に打ちなさいよっ! 四番でしょ!」
 クジ引きで決まった四番に期待しないで欲しいものだが。
 俺は長門を見習って、黙って打席に立った。
 一球目は見逃してストライク。これは驚き、やたら速いぞ。ボールが空気を切り裂く
シュルシュルシュルなんて音まで してる。何キロ出ているのか知らないが、目にも止ま
らぬとはこのことだ。実際、投げた、と思ったらもうキャッチャーミットに収まっていた。
ハルヒはこんな のを長打にしたのか?
 二球目。とりあえず振ってみた。金属バットは無益に空を斬った。空振り。かすりもし
ない。かする気もしない。
 三球目。うわ、球が曲がった。カーブというやつか? 見送れば完全にボールになる外
角球に手を出してジ・エンド。 三者連続三振。スリーアウト、チェンジ。
「アホーっ!」
 敵チームがベンチに戻っていくなか、左中間で手を振り回しながらハルヒが怒鳴ってい
た。
 面目ない。

 俺たちの守備は、はっきり言ってサバンナ地帯の蟻塚以上に穴だらけだった。
 特に外野がひどい。ライトの朝比奈さんとレフトの俺の妹はフライが上がったら最後、
まず取れない。試合前の守備練 習でそれが解った。なので、ライトに球が飛んだらセカ
ンドの俺が、レフトはショートの谷口が、全力で走って球の落ちるところまで行かねばな
らない。朝比奈 さんはボールが自分めがけて飛んでくるのを見るや、グローブを頭に載
せてしゃがみ込んでしまうのだからしかたがないし、妹のほうは、嬉しそうに走ってボー
ルを追いかけるものの、その三メートル横に球が落ちたりして、これまたどうしようもな
い。
 センターの長門は捕球は完璧だが、自分の守備範囲に飛んできたものにしか反応せず、
しかもいちいち動作が緩慢なの で、ライナーで横を抜かれると二塁打は堅い。
 …………すみやかに負けて帰ろう。それがいい。
「しまっていこーっ! おーっ!」
 ハルヒが一人で気合を入れている。その球を受けることになったキャッチャーの古泉が
付けているプロテクタやレガー ス、ミットもまた借り物であることは言うまでもない。
 相手チームの一番打者が審判に一礼してバッターボックスへ。
 ハルヒはオーバースローから一球目を投じた。
 ストライク。
 キレ、スピード、コントロールともに申し分のない見事なストレート。完全にど真ん中
だったが、バッターのバットを ピクリとも動かせない迫力に満ちた本格的な球だった。
 もちろん、俺以下、SOS団のメンバーは驚かない。こいつがサッカー日本代表に突然
指名されたところで驚きやしな いだろう。ハルヒなら何を可能にしても不思議ではない。
 しかし相手チームの一番打者はそうはいかなかったようで、続く二球
目も茫然として手を出せず、三球目にようやく バットを振ったが、あえ
なく三振。どうもバッターの手元で微妙に変化するクセ球のようだった。
ハルヒの性格同様、タチが悪い。
 凡退した一番手にアドバイスを受けた二番打者は、バットを短く持って当てにくる構え
だ。しかし二球ファールしたあ げく、これまた空振り三振。
 これには俺も不安になってきた。この調子で最終回までいくんじゃないだろうな。が、
さすがはクリンナップの一角、 三番手の打棒がハルヒ渾身のストレートをジャストミー
トした。いくらなんでもストライクゾーンに直球しか投げなければ打たれるだろ。
 突っ立ったままピクリとも動かない長門の遥か上空をボールは越え、場外へと消えた。
 内野を一周する敵の三番手を、ハルヒはまるでイアソンに裏切られた王女メデイアのよ
うな目で見つめていた。
 ともかく、これで一点のビハインド。

 続く四番に二塁打を許し、五番が国木田のエラーで一、二塁、六番にはライト前に落ち
るテキサスヒッ トで二点を献上、七番が放った三塁線強襲の当たりを鶴屋さんが軽快に
すくい上げ矢のような送球、バッターランナーをアウトにして、やっとチェンジ。
 一イニングが終わって2-0。意外に苦戦している。善戦などしてもらっては困るのだ
が。早いとこ十点取ってもらっ て直帰と行こう。

 こちらの五番から七番、妹、古泉、国木田は順調に三者凡退し、落ち着くヒマもなく二
回の裏の守備が 始まった。
 敵は、我がチームSOS団のウィークポイントが外野にあると見抜いたようだ。あから
さまなアッパースイングで打ち 上げることだけを狙ってきた。その度に俺と谷口はひた
すら外野へダッシュして捕球を試みるのだが、成功率は十%くらいのもんで、しかも異様
に疲れる。ま、 朝比奈さんの窮地を救うためならこれくらいは軽いもんさ。脅えて丸く
なっている朝比奈さんは、これはこれでとても可愛いからな。
 そんなこんなで結局、この回は五点取られた。7-0。あと三点だ。次の回で終わりに
できるだろ。

 三回の表。こちらの攻撃。
 長い髪を後ろで束ねた鶴屋さんがファールで粘っている。運動神経のいい人のようだっ
たが、ついにはキャッチャーフ ライを打ち上げて、バットでメットをこんこん叩きなが
ら、
「むずいわねーっ、バットに当てるだけで精一杯」
 それを見ながらハルヒが眉を寄せ何かを考える風情だが、こいつが考えることは大方ロ
クでもないことに決まってい る。
「ふうん。やはりアレが必要のようね……」
 ハルヒは口を尖らせて、おもむろに審判へこう言った。
「ちょっとタイム!」
 それから、メガホンを手に行儀よく座っていた朝比奈さんの首根っこをつかむと、
「ひっ!」
 小柄なジャージ姿をずるずる引きずり、ベンチ裏へと消えた。朝比奈さんと一緒にボス
トンバッグを手に持っていた が、その中に何が入っていたのかは、ほどなくあきらかと
なった。
「ちょちょっと……! 涼宮さんっ! やっやめっ……てぇ!」
 朝比奈さんの可愛い悲鳴が切れ切れに聞こえると同時に、
「ほら、さっさと脱いで! 着替えるのよ!」
 ハルヒの居丈高な声が風に乗って運ばれてきたからだ。またこのパターンか。
 果たして、再び登場した朝比奈さんは、これ以上なくこの場にふさわしい衣装を身につ
けさせられていた。鮮やかなブ ルーとホワイトを基調としたツートンカラーのノース
リーブにミニプリーツ。両手には黄色のポンポン。
 完璧なまでのチアリーダーだ。こんな衣装をどこから持ってきたんだろう。謎だ。
「似合うなあ」
 国木田が呑気な感想を漏らし、
「みくるー、写真撮ってもいいー?」
 ケラケラ笑いながら鶴屋さんがデジカメを取り出した。
 ついでに言うと、ハルヒも同じ衣装を着ていた。自分一人で着ればいいのに……とは俺
は思わなかった。朝比奈さんの チアガール姿は、はっきりいって物凄く可愛かったから
だ。何着ても可愛いんだけどね。
「ポニーテールのほうがいいかしら」
 ハルヒは朝比奈さんの髪を撫でながら後ろでまとめようとして、俺の視線に気付き口を
アヒルみたいにした。ポニー中 止。
「さ、応援しなさい」
「えええ、どどうやってですか……?」
「こうやってよ」
 ハルヒは朝比奈さんの背後に回ると、華奢な白い腕を取って、かんかんのうよろしく両
手を上下させ始めた。まるで不 思議な踊りだな。耳元でハルヒが「言え、言いなさ
い!」とか何事かを大声で囁いている。
「ひいいー、皆さん、打ってくださぁい! お願いだからーがんばってえぇー!」
 ファルセットで叫ばされている朝比奈さんだった。少なくとも谷口だけは頑張る気分に
なったようで、ネクストバッ ターボックスで無闇に素振りをしているが、いくら気合を
入れたところで相手ピッチャーの球を打てるとは思えない。
 案の定、谷口はすぐにすごすごとベンチまで戻ってきて、
「ありゃあ、打てねえな」
 こうして打順が一巡、再びハルヒがバッターとして立った。
 チアリーダー姿のままで。

 以前、ハルヒと朝比奈さんがバニーガールの扮装で並んでいたときも目に悪い光景だっ
たが、これまた インパクト的に似たり寄ったりだ。
 現に相手バッテリーはどこを見ていいものやら困り果てている。朝比奈さんは何もかも
が良いが、ハルヒは性格以外の ものがほとんど良いのだ。ツラとスタイルも。
 突如としてコントロールを乱したピッチャーの、甘く入ってきた棒球をハルヒは見逃さ
ない。またしてもセンターを抜 くスタンディングダブル。送球が乱れる間に、三塁まで
陥れた。ハルヒにスライディングされた三塁手の視線の先が気になるところだ。
 そして次のバッターはハルヒを凌駕する魅惑の美少女チアガールなのである。おどおど
とバットを構える朝比奈さん。 幾多の男ども(俺含む)の視線を浴びて、羞恥のあまり
ほんのり上気している。いい。
 すっかりヘロヘロ球しか投げられなくなった相手投手だが、やはりと言うか、それでも
朝比奈さんは打てない。わざわ ざ打ち頃の球を山なりで投げてくれるっていうのに、
「えい!」
 バットを振るときに目をつぶっているんだから、当たるものも当たらないだろう。
 そうこうしているうちにツーストライクまで追い込まれ、すると三塁ベース上で、ハル
ヒが両手をバタバタさせ始め た。何やってんだ、ありゃ?
「どうやらブロックサインを出しているようですね」
 古泉が悠然と解説する。
「サインなんか決めてたか?」
「いいえ。ですが、この状況で涼宮さんが選択しようなサインプレーはだいたい想像がつ
きますよ。あれは多分、スクイ ズをせよと言ってるんでしょう」
「ツーアウトからスリーバンドスクイズのサインか? どこかの永世監督でももうちょっ
とましな采配をするぞ」
「察するに、朝比奈さんがヒットを打つ可能性はほとんどゼロですから、まさかするわけ
ないスクイズをして相手チーム の意表をつけば、ひょっとしたら内野手がエラーをする
かもしれず、また朝比奈さんでもバットになんとかボールを当てるくらいなら出来るだろ
うと思ったので はないですか」
「完全に読まれているけどな」
 内野手全員、前がかりの守備位置についてスタートダッシュの体勢である。ハルヒの
ジェスチャーに問題があるんじゃ ないだろうか。あれはどう見てもバントの動作だ。
 果たして、スクイズは失敗に終わった。そもそも朝比奈さんはスクイズとは何かを知ら
なかったようで、ハルヒのモロ バレなジェスチャースクイズにも「え? え?」と首を
傾げているうちに見逃しの三振、スリーアウトチェンジ。
 飼い主に怒られることを覚悟した子犬のように、しおしお戻ってくる朝比奈さんをハル
ヒは呼び止めた。
「みくるちゃん、ちょっとこっちに来て、歯を食いしばりなさい」
「ひぃえぇ……」
 ハルヒは朝比奈さんの震えるほっぺたを両手でつまむと、びよんと引っ張り、
「罰よ、罰。みんなにこの面白い顔を見てもらうがいいのよ!」
「やへへぇ……ひはいへぇ……」
「アホか」
 俺はメガホンでハルヒの頭を叩き、
「意味不明なサインを出すお前が悪い。一人でホームスチールでも何でもしろ、バカ」

 その時だった。
 ぴろりろぴろりろ。古泉がジャージのポケットから携帯を出して液晶ディスプレイを眺
め、片方の眉を上げた。
 朝比奈さんはびっくりする顔で、左耳を手で押さえて遠くの方を見る目つき。
 長門は、真っ直ぐに真上を見上げた。
 守備位置に散る間際、古泉が俺を呼び止めて、
「まずいことになりましたよ」
 聞きたくもなかったが、言ってみろ。
「閉鎖空間が発生し始めました。これまでにない規模だそうですよ。ものすごい速度で拡
大しているとのことです」
 閉鎖空間。
 俺もすでにお馴染みの灰色の世界。忘れるもんか、あの薄暗い空間に閉じこめられたお
かげで、俺は一生もんのトラウ マを背負うことになったんだからな。
 古泉は微笑みを崩さずに、
「つまりこういうことです。閉鎖空間は涼宮さんの無意識的ストレスによって発生します。
そして今の涼宮さんは非常に 不機嫌です。ゆえに閉鎖空間は発生し、彼女の機嫌が直ら
ない限り拡大し続け、あなたもよくご存知の『神人』も暴れ続ける、と、そういうことで
すね」
「……つーことは、ハルヒは、野球に負けているから、という理由でヘソを曲げているわ
けか。あのアホみたいな空間を 作ってしまうくらいに?」
「そのようです」
「子供か、あいつは!」
 古泉はコメントしなかった。ただ、薄く笑っただけである。俺はため
息をつく。
「でたらめだな」
 そう言った俺を眺めて古泉は、
「何を今更言ってるんですか、それも人ごとのように。大いにあなたが関わっている、こ
れは事件なのですよ。打順を決 める際、我々はクジを引きましたね?」
「確かにアミダクジで決めたからな。それがどうした」
「その結果、あなたは四番になった」
「別に嬉しくもないぞ」
「あなたが嬉しかろうがプレッシャーを感じようが、それは涼宮さんにはどうでもいいこ
とです。問題なのは、あなたが 四番を引いたという事実なのです」
「解るように喋ってくれ」
「簡単なことです。涼宮さんがそう望んだから、あなたは四番バッターになったのですよ。
これは偶然ではありません。 彼女はあなたに四番の働きをしてもらいたいと考えている
のです。そして、あなたがまったく四番らしからぬことに失望を感じている」
「悪かったな」
「ええ、僕も困っています。このままでは涼宮さんの機嫌は悪くなる一方、閉鎖空間もま
た増え続けるという筋書きで す」
「……で、俺はどうすればいいんだ」
「打って下さい。できれば長打、ホームランなら最高でしょう。それもどでかいヤツを。
バックスクリーン直撃弾で手を 打ちますがいかがです?」
「無茶を言うな。ホームランなんかゲームでしか打ったことないぞ。あんな曲がる球を打
てるわけないだろうが」
「そこをなんとかしていただきたい、と我々一同、切に願う所存ですよ」
 願われたところで俺はランプの精でも猿の手でもないのだからどうしようもないだろ。
「この回でコールドゲームにならないように、全力を尽くしましょう。ここで試合が終わ
るようなことがあれば、世界が 終わってしまうことと同義です。なんとしてでも二点以
内に収めなければね」
 セリフの割には危機感のない顔つきで、古泉はそう言った。

 三回裏。ハルヒはそのままの衣装でマウンドに登った。当然、朝比奈さんもチアの恰好
でライトにい る。
 剥き出しの手足を惜しげもなくさらけ出し、ハルヒはランナーがいてもいなくても変わ
りないワンドアップ投法で球を 投げるのだった。
 最初の打者のライナー性の当たりは、たまたま長門の正面をついてアウト、しかし二人
目の大フライには見向きもせ ず、左中間を転々と転がる間にスリーベース。カッカ来て
いるらしいハルヒの投じる球は相変わらずの球威だったが、直球オンリーではそりゃ打た
れるわな。さ すが優勝候補。この後、ヒット二本と国木田のフィルダースチョイスで
あっさり二点を追加され、もはや絶体絶命である。しかもランナーは一、二塁。あと一点
で試合は強制終了。そして世界はどうなるのか解らない。
 カン。白球が舞い上がる。ライト方向に。落下予測地点では朝比奈さんがおろおろして
いる。考えているヒマはない。 俺は何度目かの全力疾走で右翼へと駆ける。間に合え!
 ダイビング、そしてキャッチ。グラブの先端にかろうじてボールが引っかかっている。
「おりゃ!」
 そのまま二塁ベースカバーに入った谷口に全力投球、てっきり長打になるものと思い込
んでいたランナー二人は、タッ チアップも待たずに次の塁をすでに回り終えていた。捕
球した谷口がベースを踏んで、アウト。ダブルプレー。
 なんとか首は繋がった。ああ疲れた。
「ナイスプレー!」
 朝比奈さんの賞賛の眼差しを受けつつ、谷口と国木田と妹と鶴屋さんが俺の頭をグラブ
で叩きまくるのにピースサイン を返しながら、ハルヒのほうを窺うと、奴は難しい顔を
してスコアボード(と言っても移動式のホワイトボードだが)をにらみつけていた。
 ベンチに座り込んでタオルをかぶった俺の横に古泉が来て、
「さっきの続きですが」
 あんまり聞きたくないな。
「実は対症療法はあります。あなたが前回、涼宮さんとともにあちらの世界に行ったとき、
どうやって戻ってきました か?」
 だからそれを思い出させるな。
「あの手を使えば、ひょっとしたらうまくいくかもしれません」
「断る」
 くくく、と古泉は喉を鳴らした。なんか腹立つぞ、お前。
「そう言うと思っていました。ではこうしましょう。ようは勝ちさえすればいいのです。
妙案を思いつきましたよ。たぶ ん、うまくいくと思います。彼女とは利害が一致するは
ずですから」
 にこやかに言って古泉は、ぼーっと白い円の中で佇んでいる長門の方へと向かった。動
くものと言えば微風に揺れる ショートヘアだけの長門の耳に何かを囁きかけるふうであ
る。不意に、長門はするりと振り返り、俺を無感動な目つきでじっと見つめた。
 あれは、うなずいたのか? 頭を支える釣り糸が切れた人形みたいに顔がかくんと上下
して、てくてくと打席へ。
 ひょいと左横を見ると、今度は朝比奈さんが長門を凝視している。
「長門さん……、とうとう……」
 少しばかり青い顔で気になることを言った。
「あいつがどうかしましたか?」
「長門さん、呪文を唱えているみたい」
「呪文? 何ですか、それ」
「えーと……禁則事項です」
 ごめんなさい、と朝比奈さんは頭を下げた。いやいいです、禁則事項ならしかたないっ
すよねえ。はあ、どうやらまた 例の非現実的なことが始まろうとしているようだ。
 長門の呪文とやらに、俺は思い当たるふしがあった。
 やたら暑かった五月の夕暮れ。あの日の教室に長門が乱入してこなければ、確実に今頃
の俺は墓の下で惰眠中だ。その 時も長門は凄まじい早口で呪文みたいなものを呟きなが
ら、俺を殺そうとした襲撃者を撃退したのだった。そう言えばその頃の長門は眼鏡っ娘
だったな。
 今度はいったい何をするつもりなんだろうか。
 すぐに解った。
 バット一閃、ホームラン。
 ろくに力を入れず振ったとしか思えない長門のバットは、ピッチャーの剛球を真芯で捕
らえ、高々と宙を舞わせたあげ く外野フェンスの向こうへと消えせしめた。
 俺は仲間たちへと視線を向けた。古泉は優雅に微笑みながら俺に会釈を返し、朝比奈さ
んは少しばかり硬い表情で、で も驚いてはいない。妹と鶴屋さんは無邪気にも「すごい
ねーっ」などと感心している。
 が、その他の連中は総員口ポカン状態だった。もちろん相手チームもな。
 小躍りしながらホームベース付近に駆け寄ったハルヒは、淡々とダイアモンドを一周し
てきた長門のメットをばんばん 叩きながら、
「すごいじゃないの! どこにそんな力があるの?」
 長門の細腕を取って折ったり曲げたりさせている。無表情に、されるがままになってい
る長門だった。
 やがてベンチまで歩いてきた長門は、俺にバットを手渡して、
「それ」
 使い古しの金属バットを指差し、
「属性情報をブースト変更」と言った。
「なにそれ?」と俺。長門はしばらくじっと俺を見つめながら、
「ホーミングモード」
 それだけ言って、すたすたベンチに帰ると、隅っこのほうに座って足元から分厚い本を
拾い上げ凝視し始めた。
 現在9-1の四回表。どうやらこれが最後のイニングになりそうだった。

 ピッチャーはショックから抜けきれない表情をして、それでも俺の目からは充分に速い
球を投げ込んで きた。
 そして俺は長門の言葉の意味を知る。
「おうわっ!」
 バットが勝手に動いた。釣られて俺は腕と肩が泳ぐ。キン。
 当たっただけに思えた俺の打球は、風に乗ったみたいにふらふらとどこまでも飛んでい
きスタンドをオーバーし、芝生 を越えて第二グラウンドまで飛んでいった。ホームラン。
あんぐり。
 なるほど、ホーミングモードね……。
 俺は自動追尾能力と飛距離倍増機能を獲得したらしいバットを放り出すと、せいぜい早
足で走り出した。
 二塁を回って顔を上げると、ベンチで両手を振り上げるハルヒと目が合った。すぐに
そっぽを向きやがる。お前も妹と か鶴屋さんみたいに喜べ。見たとこ、谷口と国木田は
愕然で、朝比奈さんと古泉と長門は 黙然で、敵チームのナインは愕然たる面持ちであった。
 非常に申し訳ない気分であるのだが、対戦相手の愕然はさらに続くことになる。
 俺の妹がよろよろと次の打席へ。メットが大きすぎて顔の半分以上が隠れているため
真っ直ぐ 歩くのも怪しい。俺が用 意したこの敗 戦用秘密兵器は、第一球目をフルスイン
グして柵越え弾を放った。つまり、いわゆる一つのホームランというやつだ。
 いくら何でもデタラメ、嘘っぱちにもほどがある。大学生の投げる時速130キロ(推
定)の球を、小学五年生のチビ 娘がメインスタンドまで運んでしまったのだから、これ
は現実の出来事とも思えない。
「すごいわ!」
 ハルヒはまったく現実を疑っていなかった。とっとこベースを回ってきた妹を振り回し
ながら喜色満面、
「素晴らしい才能ね! 将来性充分だわ! あなたならメジャーも狙えるわよ!」
 ぶんぶん回されながら妹はきゃあきゃあと喜んでいる。
 何というか……まあ、これで9-3。

 俺はベンチで頭を抱えていた。
 ホームラン攻勢は依然として続行中だ。現在のスコアは9-7。一イニング七連続ホー
マー。おそらく大会史上に残る 本塁打記録ではないだろうか。
 大飛球を飛ばして戻ってきた谷口は、
「俺、野球部に入ることにしたぜ。この俺のバッティングセンスがあれば甲子園も夢じゃ
ねえ。なんたって、バットが勝 手に球に当たるような気すらするんだぜ!」
 その横で国木田は能天気にも、
「いやぁ、ほんとだねぇ」
 などと和やかに言ってるし、鶴屋さんは妙にしゃちこばっている朝比奈さんの肩を叩き
ながら大笑いしてるし、とこと ん単純な奴らで大助かりだ。
「真っ向勝負よ!」
 ハルヒがバットをかざしてそんなことを言っているが、それは本来はピッチャーのセリ
フなんじゃないのか?
 もう聞き飽きてきたというのに、またコキンという金属音がとどろき、球はバックスク
リーンにぶつかって跳ね返っ た。
 これで9-8。この時までに相手ピッチャーは三人代わっていた。同情されたくはない
だろうが、思うことにする。可 哀想に。
 打者一巡して朝比奈さん、長門、俺と連続して本塁打を打ちまくり、ついに逆転9-
11。十一本連続本塁打。さすが に俺はそろそろどうにかしないとヤバイのではないかと
思い始めた。相手チームの視線が、俺たち選手ではなく、このバットに向けられているよ
うな気がしてき たからである。魔法のバットか何かと勘違いされているんじゃないだろ
うか。あながち間違いでもないのだが。
 俺は次打者の妹にバットを渡す前に、ベンチの端で本を読んでいる長門を連れ出した。
「もう充分だ」
 俺は言った。長門は表情のない漆黒の瞳で、いつもは十秒に一回くらいしかしない瞬き
を珍しく連続させ、
「そう」
 と、答え、俺が持つバットのグリップエンドに細っこい指を当て、口の中で早口言葉を
唱える。聞き取れやしなかった が、聞き取れたところで意味が解るとも思えないのでか
まわん。
 すい、と指を離した長門は、そのまま何も言わずにベンチの定位置につき、また本を広
げ始める。
 やれやれ。
 妹、古泉、国木田の三人は、今までの打撃が嘘だったみたいにバットを沈黙させて三者
連続三振に終 わった。実際、インチキだったわけだが。
 忘れていたが、実はこの試合は時間制限があった。一回戦に限れば九十分打ち切りなの
である。今日中にそれなりの試 合をこなそうとすれば無理もない主催者側の配慮だ。
よって、次の回はない。この四回裏を抑えきれば、我々の勝ちとなる。
 いいのか? 勝っちまって。
「勝たなくてはならないでしょう」と古泉。
「仲間からの連絡によりますと、おかげさまで閉鎖空間の拡大は停止の傾向にあるようで
す。停止しても『神人』はあの ままですから、どうやったって処理しなくてはならない
のですけどね。それでも増え続けなくて、こちらとしては助かります」
 しかし、ここで逆転されたらサヨナラ負けを喫するぞ。その結果ハルヒの機嫌がどうな
るのか、無用な想像力を働かせ るほど俺は勤勉ではない。
「そこで提案です」
 古泉は歯ブラシのCMに推薦したくなるほどの白い歯を見せつけながら、俺にその提案
とやらを囁いた。
「本気か?」
「えらく本気です。この回を最小失点で切り抜けるには、それしか手は残されていませ
ん」
 再び、やれやれ。
 守備位置の変更が審判に伝えられた。
 キャッチャーは古泉に代わって長門。古泉はセンターへ。そして俺は、ハルヒとポジ
ションチェンジしてマウンドに 立っていた。
 古泉にピッチャー交代を告げられたハルヒは最初ゴネていたが、リリーフが俺だという
ことを聞いた途端、複雑な顔を して、
「……まあ、いいわ。でも打たれたら全員に昼飯奢りだからね!」
 とか言いつつ、セカンドへ後退した。
 長門は立ったままひたすらぼーっとしているだけだったので、俺と古泉でプロテクタや
らフェイスマスクやら付けて やった。こんなダウナー系にキャッチャーやらせて大丈夫
か?
 とことこと長門はホームベースの後ろまで歩いて、ぺたんと座り込んだ。
 さて、試合再開だ。時間がないので投球練習も割愛されている。俺はぶっつけでいきな
り人生初のピッチャーをしなく てはならない。
 とりあえず、投げてみた。
 ぱすん。
 どうにか届きましたという感じの頼りない球が長門のミットに収まった。ボール。
「まじめにやれーっ!」
 そう叫んでいるのはハルヒだ。俺はいつですこぶる真面目さ。今度はサイドハンドで投
げてみよ。
 二投目。すこしは幻惑されて欲しかったのだが、バッターには通用しなかった。俺のヘ
ナチョコストレートに猛然と バットが襲いかかる。しまった、打撃投手並みに打ち頃の
球を投げちまった……!
 ぶうん。
「ストライク!」
 審判が高らかに呼ばわった。空振りしたんだからストライクにもなるだろう。ただ、
バッターは信じられないというよ うな顔で、長門の手元を見ている。
 気分は解る。そりゃそうだ。俺の軟弱ボールが、バットにぶったたかれる寸前に軌道を
変えて三十センチも降下したな ら誰でも不信感を覚えていい。
「…………」
 座り込んだままの長門が手首のスナップだけで球を返した。ふわふわと飛んでくる気の
抜けたボールを受け取り、俺は 投球モーションに入った。
 何回投げてもハーフストレートにしかならない。そして三球目はとんでもない大暴投の
すっぽ抜け----の、はず が、数メートル飛んだところで針路修正、明らかに慣性と重力と
航空力学を無視した機動で曲がり、加速までして一気にミットを目指し、スパン。いい音
がし て、長門の小柄な身体が揺らいだ。
 バッターは目を剥いているし、審判もしばらく声を出さなかった。ややあって、
「……ストライク、ツー」
 自信なさそうにコールした。面倒なのでちゃっちゃっと行こう。
 もう俺は適当に投げた。狙いも何もない。力も全然入れていない。にもかかわらず、俺
の投げた球は、バッターが見送 れば必ずストライクコースに、振りに来たらかすりもせ
ずに変化するのである。
 秘密は俺が投げるたびに何かをブツブツ呟いている長門にある。それはあまりにも秘密
なので、俺にすら仕組みが解ら ない。おそらく以前、俺の命を救ったり教室を再現した
りさっきバットをどうにかしたような、何からの情報操作をしているのだろう。
 おかげで、ほとんど扇風機を相手に投げているのも同然である。今日のMVPは長門有
希で決定だ。
 あっという間にツーアウト、最後の打者もツーナッシングまで追いつめた。こんなに簡
単に俺がストッパーやっててい いのだろうか。すまん、上ヶ原パイレーツ。
 いまや真っ青になっているラストバッターに、俺は渾身でもなんでもないひたすら普通
の球を投じた。
 軌道修正、ストライクゾーンへ。打者は思いっきりバットを振る。再軌道修正、外角低
めへ。バットが空中に残像を残 して一回転、三振アウト、ふう、やっと終わっ……てな
かった。
「!」
 ボールが転々とバックネット方向へ。調子に乗って曲げすぎたようだ。長門のミットを
掠めたホップしてからフォーク のように落ちるというミステリアスボール(命名、俺)
は、ホームプレートの角にワンバンして、あらぬ方向へと転がっている。
 振り逃げだ。
 最後のチャンスとばかりにバッターは走り出す。しかし長門はミットをそのままの姿勢
で固定し、フェイスマスクをか ぶった状態で黙々と座り込んでいるだけだ。
「長門! 球を拾って投げろ!」
 指示する俺を無感動に見上げて、長門はゆらゆらと立ち上がり、転がり逃げるボールを
追った。とてとてと。降り逃げ バッターは一塁を蹴り、二塁を陥れようとしている。
「早くーっ!」
 ハルヒがセカンドベースの上でグラブを振り回してる。
 やっとでボールに追いついた長門は、拾い上げた軟式を海亀の卵でも見るような目つき
でじっとみて、それから俺を見 た。
「セカンド!」
 俺は自分の真後ろを指差す。そこにハルヒがいて、大声を上げている。長門はミリ単位
のうなずきを俺に返して ----、
 ビュン。俺の側頭部を白いレーザービームが掠めた。髪の毛何本かが持っていかれる。
そのレーザーが、長門が手首の 動きだけで放った送球であることに気付いたのは、球が
ハルヒの手首からグラブを、吹っ飛ばし、グラブに填り込んだままセンターまですっ飛ん
でいくのを見て からだった。
 ハルヒは自分がさっきまで填めていたグラブが消え失せたことに目を見はり、ランナー
のほうはと言うと、セカンド手 前で仰天のあまり、コケていた。
 センターの古泉がグラブを拾い上げてボールを取り出し、誰に対しても同じニコニコ顔
で歩いてきて俯せ状態の打者走 者にタッチして、謝った。
「どうもすみません。我々、少しばかり非常識な存在なんですよ」
 その非常識な存在に俺まで数えられているんじゃないんだろうな、と思いながら、俺は
深々と嘆息した。
 試合、終了。
 上ヶ原パイレーツの皆さんは男泣きに泣いておられた。よくは知らんが、後で大学のO
Bから折檻でも受けるからだろ うか。女子小学生が混じっている、女のほうが多いよう
な高校生の素人チームに負けたのがよほど悔しいのか。その両方だろうね。
 一方で、そんな敗者の哀愁をまったく考慮しないハルヒは、はしゃいでいるように見え
た。SOS団設立を思いついた あの日と同じくらいの笑顔で、
「このまま優勝して、それから夏の甲子園に乗り込みましょう! 全国制覇も夢ではない
わ!」
 というようなことを真面目に叫んでいる。乗り気そうなのは谷口だけだったが。俺は勘
弁してくれと思っていたし、高 野連だってそう思うだろう。
「ごくろうさまです」
 いつの間にか横に来ていた古泉が、
「ところでこれからどうします? 二回戦もやりますか?」
 俺は首を振った。
「ようするに負けたらハルヒはご機嫌斜めになるわけだろ? てことは勝ち続けなきゃな
らん。さらに、てことはまた長 門のインチキマジックの世話になる必要がある。どう考
えたって、これ以上、物理法則を無視していたらマズいだろうよ。棄権しよう」
「それがいいでしょう。実は僕もそろそろ仲間の手伝いに行かなくてはならないんですよ。
閉鎖空間を消すためにね。 『神人』退治の人手が足りないようでして」
「よろしく言っといてくれ。あの青い奴にも」
「伝えましょう。それにしても今回のことで解りましたが、涼宮さんをあまりヒマにさせ
ておいてはダメのようですね。 今後の課題として、検討の余地があります」
 それでは後はよろしく、と言って、古泉は二回戦進出辞退を告げに運営本部テントまで
歩き出した。
 やっかいなほうをさり気なく俺に押しつけやがった。しょうがない。
 俺は、朝比奈さんに無理矢理フレンチカンカンを踊らせて自分も踊っているハルヒの背
中をつついた。
「なによ、あんたも一緒に踊る?」
「話がある」
 俺はグランドの外にハルヒを連れ出した。存外ハルヒはおとなしくついてきた。
「あれを見ろ」
 俺はベンチでうずくまっている上ヶ原パイレーツの選手たちを示して、
「気の毒だと思わないか?」
「なんで?」
「たぶん、彼らはこの日のために辛く厳しい練習に耐えてきたんだ。四年連続優勝がか
かっていたんだからな、相当重圧 もあったとこだろう」
「だから?」
「中にはベンチ入りすら出来なくて涙を飲んだ選手もいたに違いない。ええと、ほら、あ
のネット裏に立っている五分刈 のにーちゃんなんかそんな感じだ。なんて気の毒なのだ
ろう。彼にはもう出番がないのだ」
「それで?」
「二回戦は辞退しよう」
 俺はきっぱりと言った。
「充分楽しんだだろう? 俺はお釣りを誰かにやりたいくらいだ。後は飯でも食いながら
バカ話でもしているほうがい い。実はもう足とか腕とかはガタガタのボロボロなんだ」
 それは本当だ。内外野を行ったり来たりしていたせいで、実にもうヘトヘトなのである。
精神的にもな。
 ハルヒは得意の表情、拗ねたペリカンのような表情になって、俺を上目で黙って見続け
た。俺が落ち着かない気分にな りかけたとき、
「あんたは、それでいいの?」
 いいともさ。朝比奈さんも古泉も、おそらく長門もそう思っていることだろう。妹は
さっきから素振りの練習をしてい るが、あいつは飴玉一個でバットを投げ出すさ。
「ふうん」
 ハルヒは俺とグラウンドを交互に見ながら、しばらく考えて、あるいは考えるフリをし
て、ニヤリと笑った。
「ま、いいわ。お腹空いたし。お昼ご飯に行きましょう。あたし思うんだけど、野球って
すごく簡単なスポーツだったの ね。こんなにあっさり勝てるなんて思ってもなかった
わ」
 そうかい。
 俺は反論せず、ただ肩をすくめた。

 相手チームのキャプテンは二回戦進出の権利を譲渡すると申し出たと
き、涙ながらに感謝してくれた。それを見て俺は また申しわけなく思う。
こちとら、かなり無理なイカサマで勝ちを盗んでしまったからな。
 そそくさと立ち去ろうとした俺を、そのキャプテンは呼び止めて、耳元でこう囁いた。
「ところで、キミたちの使っていたバット、いくらでなら譲ってくれる?」

 というわけで古泉を除いた俺たちは今、ファミレスの一角を占拠して飯を食っている最
中だ。
 妹はすっかりハルヒと朝比奈さんに懐いてしまい、二人の間で危なっかしくナイフをハ
ンバーグに突き刺している。谷 口は国木田と真剣に野球部に入ることを相談しているが、
まあ好きにすればいい。鶴屋さんの興味は今度は長門に向いたみたいで、「あなたが長門
有希ちゃん?  みくるからよっく聞いてるよっ」とか話しかけて黙々とBLTサンドを
頬張る無口な下級生に無視されている。
 みんな頼みすぎなくらいに注文しているが、それもそのはず、ここでの払いは俺の奢り
になっていた。
 素晴らしい名案を思いついたみたいな口調で、ハルヒがそう宣言したからである。なん
でそんなことをハルヒが思いつ いたのかはさっぱり解らない。こいつの思考がトレース
できたためしもないから、いちいち俺は驚きはしないし、面倒なので抗議もしなかった。
それどころか、 晴れやかな気分ですらあった。
 なぜなら、どういうわけか俺のポケットには、けっこうな臨時収入があったからである。
 上ヶ原パイレーツの健闘を祈りたい。

 数日後のことになる。
 放課後、俺たちはまた部室棟の一室で、いつものようにノーマルな日常を送っていた。
 メイド衣装の朝比奈さんが淹れてくれた玄米茶を飲みながら、俺は古泉相手にオセロを
していて、その横では長門が図 書館から借りてきたらしい分厚い辞典みたいな哲学書を
読みふけっている。ちなみに朝比奈さんの今日のいでたちは俺の要望によるものだ。ナー
スよりはメイド さんに給仕されるのがいいだろ、やっぱり。その朝比奈さんは盆を抱え
て俺たちの対戦を目を細めて観戦している。
 ここしばらく変わりない、いつもの俺たちの風景である。
 そして雄大な黄河の流れのように悠然たる一時を、ぶちこわしにするのはいつも涼宮ハ
ルヒだった。
「遅れてごっめーん!」
 意味もなく謝りながら、ハルヒが冬場の隙間風のように飛び込んできた。
 その顔面全体を覆うスマイル状の仮面が不気味だ。こいつがこんないい顔で笑い出すと、
なぜか俺が疲れるカラクリに なっているのである。不思議な世界だな、ここは。
 予想通り、ハルヒはまたまた唐変木なことを言い出した。
「どっちがいい?」
 俺はオセロの黒石をパチリと置いて、古泉の白石を二枚ひっくり返し、
「どっちとは?」
「これ」
 ハルヒが差し出した二枚の紙切れを、不承不承受け取った。
 またしてもチラシだった。見比べる。一つは草サッカー大会のお知らせで、一つは草ア
メリカンフットボール大会のお 知らせだ。こんなもんを印刷した業者を真剣に呪うね、
俺は。
「ホントはね、野球じゃなくてこの二つのどちらかにしようと思ってたのよ。でも野球の
ほうが日程が早かったからね。 で、キョン、どっちがいい?」
 俺は暗澹たる思いに駆られて部室に視線を彷徨わせた。古泉は微笑苦を浮かべてオセロ
の石を指で弾き、朝比奈さんは 泣きそうな顔でふるふると首を横に振っていて、長門は
面を書物に伏せたまま動くのは指だけだ。
「でさ、サッカーとアメフトって何人でやるスポーツ? この前の連中だけで足りる?」
 ハルヒのハレーションを起こしそうに明るい笑顔を眺めながら、俺はどっちのほうが選
手が少なくてすむのだろうかと 考えていた。

笹の葉ラプソディ

 そう言えば五月もやたら暑かったが七月の今日も輪を掛けたように暑くて、しかも湿気
も格段に向上しており俺の不快 指数をいたずらにあおっていた。この高校の安っぽい校
舎は エアコンなどという上等な機能とは無 縁である。一年五組の教室内はアメニティの概
念を設計者が 持っていなかったとしか思えないような温熱地獄への待合室となっていた。
 付け加えると今週は期末テストを間際に控えた七月の一週目で、俺の中の愉快な気分は
ブラジルあたりを彷徨って当分 戻ってきそうにない。
 中間テストも散々だったが、このまま行くと期末もまともな結果を迎えるとは言い難く、
それは俺がSOS団の活動に かまけすぎて学業に専念できないからに違いない。そんな
もんにかまけたくもないのだが、ハルヒが何か言い出すたびに意味もなくアチラコチラを
うろちょろし なければならなくなってしまうという法則がこの春から俺の日常となりつ
つあって、そんな日々に段々慣れ始めている自分がちょっとイヤだ。
 その西日射す教室での休み時間である。真後ろの席にいた女が俺の背中をシャープペン
でつついた。
「今日は何の日か知ってる?」
 クリスマスイブ前夜の小学生のような顔で涼宮ハルヒは言った。こいつがこんな感情豊
かな表情を浮かべ始めるのは何 かロクでもないことを考えているというシグナルである。
俺は三秒だけ考えるフリをしてから、
「お前の誕生日か?」
「ちがうわよ」
「朝比奈さんの誕生日」
「ちがーう」
「古泉か長門の誕生日」
「知らないわよ、そんなの」
「ちなみに俺の誕生日は----」
「どうでもいい。あんたって奴は、今日がどんなに大切な日なのか解ってないのね」
 そう言っても、俺にしてみればただ暑い平日でしかないのだが。
「今日は何月何日か、言ってみなさい」
「七月七日。……もしやとは思うが、七夕がどうとか言い出すんじゃないだろうな」
「もちろん言い出すつもりよ。七夕よ七夕。あんたも日本人ならちゃんと覚えていないと
ダメじゃないの」
 ありゃもともと中国の伝承だし、本来の七夕は旧暦で言えば来月だ。
 ハルヒはシャープペンを俺の顔の前でチッチッと振って、
「紅海からこっちはひっくるめて全部アジアなのよ」
 どういう地理感覚だ。
「W杯の予選だって一緒くたにされているじゃないの。それに七月も八月も似たようなも
のよ。夏よ夏」
 ああ、そう。
「いいからちゃんと七夕の行事はしなくっちゃね。あたしはこういうイベント事はしっか
りやることにしてんの」
 しっかりやるべきことは他にもありそうな気もするけどな。それ以前になぜ俺にわざわ
ざ宣言する必要があるのだろ う。お前が何をしようと知ったことではないぞ。
「みんなでやったほうが楽しいからね。今年から七夕は団員全員で盛大にやることにした
のよ」
「勝手に決めるな」
 そう言いながらも、ハルヒの無意味に得意げな顔を眺めていると反論するのもバカらし
くなってくる。
 しかして本日の授業が終わり、終業のベルが鳴ると同時にハルヒは教室を飛び出して
いった。
「部室で待ってないさいよ! 帰っちゃダメよ!」と言い残して。
 言われなくとも部室に行くつもりだった。少なくとも一日一回はお姿を目に入れておき
たい方がおられるからな。一 人。

 部室棟二階、文芸部に間借りと言うより寄生しているSOS団のアジトには、すでに他
の団員たちが 揃っていた。
「あ。こんにちは」
 そう言ってにっこり微笑むのは朝比奈みくるさんだった。俺の安らぎの元である。もし
彼女がいなければSOS団な ど、ルー抜きのカレーライス並みの存在価値しかあるまい。
 この七月から朝比奈さんのメイド服はサマーバージョンに衣替えを果たしている。どこ
からか知らないが衣装を持って きたのはハルヒで「あ……どうも。ありがとうございま
す」と、生真面目にも礼を言った朝比奈さんである。今日もSOS団付きのメイドさんと
して、かいがい しく俺に玄米茶を淹れてくれた。それを飲みながら室内を見渡す。
「やあ、調子はどうですか」
 長テーブルにチェス盤を置いてプロブレム集を片手に駒をいじっていた古泉一樹が顔を
上げて会釈した。
「俺の調子は高校入学以来、狂いっぱなしさ」
 オセロも飽きてきましたからチェスでもやりましょう、などと言って先週あたりに古泉
が持ってきたのだが、あいにく 俺はルールを知らず、他の誰も知らなかったので一人寂
しく詰めチェスをしているのは、テストも近いってのに余裕でいいことだ。
「余裕と言うほどでもないんですけどね。これは勉強の合間の頭の体操ですよ。一問解く
たびに脳の血行がよくなりま す。是非ご一緒にいかがですか?」
 別にいい。俺はこれ以上考えることを増やしたくない。今変なことを覚えるとその記憶
ぶん、覚えておかなければなら ない英単語が脳からまろび出るような気がするからな。
「それは残念。次は人生ゲームか魚雷戦ゲームでも持ってきましょうか。そうですね、み
んなでできるやつがいいかな。 何がいいと思います?」
 何だっていいし、同時に、何だってよくない。ここはボードゲーム研究会ではなく、S
OS団なのだ。ちなみにSOS 団の活動方針は俺にだって謎であり、そんな謎の団で
いったい何をすればいいのかは未だに解らない。別段解りたくもないし解らないことはし
ないほうが無難な のだ。ゆえに俺は何をする気にもなれないのである。我ながら完璧な
ロジックだ。
 古泉は肩をすくめて再びプロブレム問題集に戻った。黒のナイトをちょいとつまみ、盤
面の新たな場所に移動させる。
 この古泉の横では、B級アニマトロニクスよりも表情に乏しい長門有希がひたすらに読
書をやっていた。この無口で無 愛想な宇宙人モドキの趣味趣向はとうとう翻訳小説から
原書になったようで、今はタイトルすら読めないヒゲ文字の古くてやたら厚い魔術書みた
いなもんを読ん でいる。古代エトルニア語か何かで書かれているに違いない。長門なら
線型文字Aで書かれている碑文でも平気で読むだろう。
 俺はパイプ椅子を引いて腰を下ろした。すかさず朝比奈さんが目の前に湯飲みを置いて
くれた。この暑いのに熱いお茶 もなかろう----などと罰当たりなことは決して考えること
なく、俺は感謝の気持ちを持って玄米茶をすすった。うーん、熱くて暑い。
 部屋の片隅でハルヒがどこからかギッてきた扇風機が首を振っているが、焼け石に熱湯
をかけているくらいの効果しか あげていない。どうせなら職員室から業務用クーラーで
もパクってくればいいのに。
 俺は長テーブルではたはたしている英語の教科書から目を逸らすと、パイプ椅子の上で
背筋を反らして大きく伸びをし た。
 どうせ家に帰っても勉強しないのだから、放課後の部室でやっておこうと試みたものの、
やりたくないもんは場所がど こであれ、やりたくないのだ。やりたくもないことをする
のは肉体的にも精神的にもよろしかろうはずもない。つまり、やらないほうがよほど健や
かな生活を送 ることができる。よし、やめ。俺はシャープペンを転がして教科書を閉じ
て、精神安定剤を眺めることにした。厭世観に囚われた心を癒してくれる俺の精神安定
剤は、メイドさんの姿をとってテーブルの向かいで数学の問題集を解いていた。
 真面目な顔で問題集を見つめてはノートにちょこちょこと書き込みをして、物憂げな顔
で考え込み、パッと何かを思い ついた顔になってはまた鉛筆を走らせる、という行動を
繰り返しているその彼女は、もちろん朝比奈みくるさんである。
 見ているだけで和むね。街頭募金に小銭以外の貨幣を投じてもいいくらいの優しい気分
になってきた。朝比奈さんは俺 が観察しているとも気付かず熱心に数学の勉強にいそし
んでいる。動作の一つ一つが微笑ましく、実際に俺は微笑みを浮かべてしまった。アザラ
シの赤ん坊を見 ているような気分。
 目が合った。
「あ。な、なんですか? わたし、何か変なことしてました?」
 朝比奈さんは慌てたように身繕いする。その仕草がまた良くて、俺が何かエンジェリッ
クな修辞を言おうとしたその 時、
「やっほーいっ!」
 荒々しく扉が開かれ、ぶしつけな女がどこまでもぶしつけにやって来た。
「めんごめんご。遅れてごめんね」
 謝ることはない。誰も待ってなどいなかったからな。
 ハルヒはぶっとい竹を肩に担いでがさがさ言わせながら登場した。青々と笹の葉の茂っ
た生々しい竹である。こんなも ん持ってきて何をするつもりだ。貯金箱でも作るつもり
か。
 ハルヒは胸を張って答えた。
「短冊を吊るすに決まっているじゃないの」
 ホワイ、なぜ?
「意味はないけど。久しぶりにやってみたくなったのよ。願いごと吊るし。だって今日は
七夕だもんね」
 ……いつもながら本当に意味がないな。
「どこから持ってきたんだ?」
「学校の裏の竹林」
 あそこは確か私有地だぞ。この竹泥棒が。
「別にいいじゃないの。竹は地下で繋がっているんだし、表面の一本くらいなくなっても
どうってことないわ。タケノコ を盗んだんなら犯罪かもしれないけど。それよりヤブ蚊
にさされちゃってカユいのなんの。みくるちゃん、背中にかゆみ止め塗ってくんない?」
「あっ、はいはい!」
 救急箱を手にした朝比奈さんがパタパタを駆け寄る。見習いナースさんのよう。塗り薬
のチューブを取り出して、セー ラー服の裾からハルヒの背中に手を差し入れた。前屈み
になっているハルヒは、
「もうちょっと右……行き過ぎ。あー、そこそこ」
 顎の下を撫でられている子猫のように目を細めていたが、青竹を窓際に立てかけるとハ
ルヒはやおら団長机の上に立ち 上がり、どこからともなく短冊を取り出して、実にご機
嫌な笑みを浮かべた。
「さあ、願い事を書きなさい」
 ぴくりと長門が顔を上げた。古泉は苦笑を広げ、朝比奈さんは目を丸くしている。藪か
ら棒というか、今回は竹林から 笹か。ハルヒはスカートの裾を翻して机から飛び降り、
「ただし条件があるわ」
「何だ」
「キョン、あんた、七夕に願い事を叶えてくれるのって誰か知ってる?」
「織姫か彦星じゃねえの」
「正解、十点。じゃ、織姫と彦星ってどの星のことか解る?」
「知らん」
「ベガとアルタイルでしょう」
 古泉が即答した。
「そう! 八十五点! まさしくその星よ! つまり短冊の願い事はその二つの星に向
かって吊るさないといけないの。 解る?」
 何が言いたいんだろう。残りの十五点はどこの部分だ?
 えっへん、とハルヒはなぜか偉そうに、
「説明するわ。まず光の速さを超えてどっかにいくことはできません。特殊相対性理論に
よるとそうなっています」
 いきなり何を言い出すのか。ハルヒはスカートのポケットからノートの切れ端を取り出
して、ちらちらとメモを見なが ら、
「ちなみに地球からベガとアルタイルまでの距離は、それぞれ約二十五光年と十六光年で
す。てぇことは、地球から発し た情報がどっちかの星に辿り着くまでには二十五年ない
し十六年かかるのは当然----よね?」
 だからどうした。それにしてもわざわざそんなことを調べてきたのか?
「だから、どっちかの神様が願い事を読んでくれるのはそれくらいの時間がかかるってこ
とじゃないの。叶えてくれるの もそんくらい後のことになるでしょ? 短冊には今から
二十五年後か十六年後くらいの未来に叶えてくれそうなことを書かなきゃならないのよ!
次のクリスマ スまでにかっこいい彼氏ができるようにっ! とか書いても間に合わない
わ!」
 手を振り回して力説するハルヒ。
「おい、待てよ。往きに二十年くらいかかるんだったら、復路も同じだけの時間がいるだ
ろう。じゃあ願い事の成就は五 十年後か三十二年後の話じゃないか?」
「神様だもの。それくらいは何とかしてくれるわよ。年に一度だもの、半額サマーバーゲ
ンよ」
 そういう所だけ都合よく相対論を無視し、
「さ、みんな。話は解ったでしょ。短冊は二種類書くのよ。ベガ宛とアルタイル宛のね。
で、二十五年後と十六年後に叶 えて欲しい願い事をしなさい」
 無茶なことを言い出した。だいたい二種類も願いをしようという心づもりが図々しい。
それに二十五年後や十六年後に 自分が何をしてるのかも知れないのに、どんな願いをせ
よと言うのだろう。せいぜい年金制度や財政投融資が破綻せずにちゃんと機能しています
ようにとかじゃ ないだろうか。そんな願いを掛けられて織姫彦星の両人もいい迷惑だろ
うな。ただでさえ年一でしか会えないのに、そんなもん自国の政治家に何とかしてもら
え、てな気分に、まあ俺ならなるね。
 しかし、いつものようにしなくてもいいことばかりを考えつく奴だ。頭の中にホワイト
ホールでも入っているんじゃな いだろうか。こいつの考える一般常識はいったいどこの
宇宙の常識だろう。
「そうとも言えませんね」
 古泉がハルヒの肩を持つようなことを言う。ただし小声で、俺だけに聞こえるように、
「涼宮さんは言動こそエキセントリックですが、ああ見えて常識というものをよく理解し
ていますよ」
 古泉はいつもながら爽やかな微笑を俺に向けつつ、
「もし彼女の思考活動が異常であるならば、この世界がこんなに安定しているわけはあり
ません。もっと変哲な法則の支 配する奇妙な世界になっているはずです」
「なんでそんなことが解るんだ」と俺。
「涼宮さんは世界がもっと風変わりになることを望んでいます。そして彼女には世界を再
構築できるだけの力もありま す。あなたもよくご存知のはずですよ」
 確かにご存知だともさ。疑ってはいるが。
「しかし今のところこの世界はまだまだ理性を失っていません。それは彼女が自分の願望
よりも常識を重んじているから なのです」
 幼稚な例題ですが、と古泉は前置きして、
「たとえばサンタクロースがいて欲しいと考えたとします。ですが常識的に考えればサン
タさんは存在しませんね。厳重 に施錠された深夜の屋敷に侵入し誰にも見咎められるこ
となくプレゼントを置いて姿をくらますなどということは少なくとも現在の日本を舞台と
するなら不可能 です。聖クロース氏はいったいどうやって子供一人一人の欲しがるもの
を知るのでしょうか。一晩で全世界の良い子宅を回る時間的余裕もまた然りですよ。物理
的にあり得ないことです」
 そんなもん、真面目に考える奴のほうがどうかしている。
「まさにその通りです。ゆえにサンタクロースは存在しないのです」
 反論するのはハルヒの片棒をかつぐみたいで不愉快だったが、俺は疑問を口にする。
「もしそうだとするなら、サンタ同様に宇宙人も未来人も超能力者もいやしないんじゃな
いのか? なんでお前はここに いるんだ」
「涼宮さんは、だから、自分の中にある常識にイラだっているのだと想像できます。超常
現象が頻発するような世界で あって欲しいという想いを常識の部分が否定しているので
す」
 じゃあ結局あいつは非常識が勝ってるんじゃないか。
「抑 圧しきれない想いが僕や朝比奈さんや長門さんのような存在をここに呼び、僕に妙な
力を与えたのでしょう。あなた はどうなのかよく解りませんけどね」
 解らなくて結構。少なくとも俺はお前と違って自分が普通の人間であるという自覚に確
信を持っているのだ。
 それが幸せなのか不幸なのかは未だに解らないが。
「そこっ! 私語は慎みなさい。いま真面目な話をしてんだからねっ」
 俺と古泉がこしょこしょしてたのが目障りだったのか、ハルヒが目を三角にしながら叫
んで、しかたなく俺たちはハル ヒが配った短冊と筆ペンを持って席に着いた。
 ハルヒは鼻歌混じりにペンを動かしているが、長門は短冊を見つめたままじっとしてい
て、朝比奈さんはケーニヒスベ クルの橋問題を解こうとするかのように困った顔をして
いる。古泉は、「さて、悩みますね」と軽やかな口調で言いながら首を傾げていた。三人
とも、そんな真 剣そうに考えることじゃないだろう。適当にやりすごせばいいのさ。
 ……よもや、本当に書いたもんが実現するとか言わないでくれよ。
 俺は筆ペンを指でくるくる回して視線を横に向けた。ハルヒが伐採してきた竹は、開け
放した窓から突き出て葉を逸ら している。ときおり気まぐれに吹く風に揺れてサラリサ
ラリと音を立てているのが涼しげだった。
「ねえ、書けた?」
 ハルヒの声に振り返る。奴の手前のテーブルには次のように書かれた短冊がある。
『世界があたしを中心に回るようにせよ』
『地球の自転を逆回転にして欲しい』
 なんか、躾のなっていないイタイ子供みたいなことを書いてやがる。ウケ狙いならまだ
いいのだが、笹の葉に短冊を吊 るすハルヒの表情はどこまでも真剣だった。
 朝比奈さんは可愛らしくも丁寧な文字で、
『お裁縫がうまくなりますように』
「お料理が上手になりますように』
 実にいじらしいことを依頼していて、朝比奈さんは吊るした短冊を拝むようにして手を
合わせて目をつむった。何か勘 違いしてるっぽい。
 長門の短冊は味気ない。『調和』『変革』という殺風景な漢字を習字
の手本のような楷書で書いたのみである。
 古泉はと言うとこれも長門と似たり寄ったりで、『世界平和』『家内
安全』なる四文字熟語を意外に乱暴な筆致で記し ていた。
 俺? 俺もまたシンプルだ。なんせ二十五年後と十六年後だ。そんときの俺はもうけっ
こうなオッサンで、たぶん、そ の頃の俺はこんなことを願っているはずだろうさ。
『金くれ』
『犬を洗えそうな庭付きの一戸建てをよこせ』
「俗物ねえ」
 俺のぶら下げた短冊を見てハルヒが呆れたようにコメントした。こいつにだけは呆れら
れたくないな。地球逆回転より は遥かに人生の役に立つだろう。
「ま、いいわ。みんな、ちゃんと書いた内容を覚えておくのよ。いまから十六年後が最初
のポイントよ。誰の願いを彦星 が叶えてくれるか勝負よ!」
「あ……はい。はい」
 朝比奈さんが真面目な顔でうなずいているのを窺いながら、俺は元いたパイプ椅子に腰
を落ち着けた。見ると長門は とっくに読書に戻っている。
 ハルヒは長い笹竹を窓から突きだして固定すると、窓際に椅子を引き寄せて座り込んだ。
窓枠に肘を載せ、空を見上げ ている。その横 顔はどことなく憂いの成分が含まれている
ように感じて俺は少々とまどった。感情の起伏が激しい奴だ。さっきまで叫んでいたのに。
 俺は試験勉強を再開しようと教科書を開き、関係代名詞の種類を覚えようと試みた。
「……十六年か。長いなあ」
 背後でハルヒが小さく呟いた。

 長門は黙々と洋書の直読み、古泉は一人チェスに戻って、俺が英訳の丸暗記をしている
間、ハルヒは ずっと窓際に座って空を眺めていた。そうやって黙ってじっとしていたら
絵に ならないこともないのにな。すこしは長門を見習うつもりでも出てきたのかと思っ
たが、しおらしくしているハルヒは、それはそれで相当に不気味だ。俺たちが困りそうな
ことを考えているに決まっているだろうからだ。
 とは言え今日ばかりはなぜかハルヒは妙にテンションが低かった。お空を見上げて吐息
のようなため息をついていたり する。ますます不気味だ。今静かにしているぶん、反動
が怖い。讃岐に流されたばかりの崇徳上皇も最初の二、三日はこんな感じだったに違いな
い。
 かさり、と紙の擦れる音がして目を上げる。俺の正面で問題集とにらめっこしていた朝
比奈さんが、片手の人差し指を 唇に当てて右目を閉じ、余った短冊を俺に差し出してい
た。朝比奈さんはハルヒのほうをチラと窺い、さっと手を引っ込めた。そのままイタズラ
を成功させた童 女のような顔で下を向く。
 俺もまた共犯意識丸出しで、朝比奈さんがくれた短冊をささっと手元に引き寄せて見た。
『部活が終わっても部室に残っていてください☆ みくる☆」
 と、ちまちました字で書いてあった。
 もちろんその通りにするとも。

「今日はこれで帰るわ」
 ハルヒがそう言って、さっさと鞄を手にして部室から出て行った。どうも調子が狂うね。
いつもは燃費の悪いディーゼ ルトラックみたいな奴が、今日はソーラーカー並みの殊勝
さだ。今日の俺にとっては好都合だが。
「では僕もこれでおいとましましょう」
 古泉もチェス駒を片づけて立ち上がった。そんで、俺と朝比奈さんに目礼してから文芸
部室を後にする。
 長門もぱたんと本を閉じた。おう、お前も追随してくれるか。ありがとう……と俺が感
謝の念を抱いていると、長門は 猫みたいな音のしない足取りで俺の前までやって来て、
「これ」
 紙切れを差し伸べた。また短冊である。俺に渡されても天の川まで配送できやしないぜ、
と思いながら目を落とす。
 意味不明な幾何学模様が描かれていた。なんだこれは、シュメール文字かなんかか?
こんなもんエニグマに読み込ま せても解読できそうにないぞ。
 俺が眉間にシワを寄せて絵とも文字とも着かない○とか三角とか波状線とかを注視して
いるうちに、長門は身体を半回 転させて帰り支度、そしてすたすたと部室から出て行っ
た。
 まあいい。俺はその短冊をスラックスのポケットにしまい込み、お待たせしましたとば
かりに朝比奈さんへと向き直 る。
「あ、あのぅ。一緒に行って欲しいところがあるの」
 誰あらん朝比奈さんのお誘いである。断ったりしたらバチが当たる。行こうと言うのな
ら溶鉱炉の中だって飛び込もう じゃないか。
「いいでしょう。どこに行くんですか?」
「その……ええと……三年前に、です」
 どこへと訊いているのに返ってきたのは、いつ、の話かいな。しかし……。
 三年前。またそれか、という感じだった。だったものの、俺は多大なる興味を引かれた。
そういえば朝比奈さんは一応 正体不明の自称未来人なのだった。あまりの可愛さにすっ
かり忘れていたが。しかし三年前? そこに行く? ってことは、つまるところタイムト
ラベルなの か?
「そう----そう、です」
「いやあ、行くのはやぶさかではありませんが、でも何で俺が? 何しに?」
「それはその……行けば解ります……たぶん」
 なんだそりゃ。
 俺の不審が若干量、顔に出たのだろう。朝比奈さんは慌てたように手をバタつかせたの
ちに、目を潤ませながら俺を拝 んだ。
「お願いです! 今は何も訊かずにうんって言ってください。でないとわたし……その、
その、困ります」
「えーと。じゃあ、いいですけど」
「ほんとっ? ありがとう!」
 朝比奈さんは飛び上がらんばかりに喜んで俺の手を握りしめた。いやあ、朝比奈さんの
喜びは俺の喜びでもあります よ、はっはっは。
 思い起こせば朝比奈さんが告白したところの「未来から来た」発言は、はっきり言や自
己申告でしかない。成長したも う一人の朝比奈さんがいかにもそれっぽく登場したりし
たおかげですっかり信じ込んでしまったものの、あれが何らかのトリックである可能性も
否定できない。 なら、これは朝比奈さん未来人 説を補強するうってつけの機会ではない
か。
「で、タイムマシンはどこなんですか?」
 机の引出しにでも潜り込めばいいのかと思ったが、そのようなギミックはないのだと
おっしゃる。では、どうやって時 間を跳躍するのか。朝比奈さんはもじもじとエプロン
ドレスの前で指を絡ませて、
「ここから行きます」
 え、ここで? 俺は人気の絶えた部室を意味もなく見回した。二人っきりである。
「はい。椅子に座って。目を閉じてくれます? そう、肩の力を抜いて」
 従順に従う俺である。まさか後ろからガツンとはやられないだろう。
「キョンくん……」
 背後から朝比奈さんの潜めた声が耳の後ろにかかる。柔らかい吐息だった。
「ごめんね」
 嫌な予感がして目を開けようとした瞬間、不意の暗転。立ちくらみの強烈な奴が俺の意
識を奪い去った。完全なるブ ラックアウトが訪れる間際、やめときゃよかったかな、と
ちょっとだけ思った。

 意識が復活したとき、俺の視界は九十度ほど狂っていた。本来ならば縦になっているべ
きものが横に なっていて街灯が左から右に生えているのを見て、ああ俺は今横になって
いるのだなと考え、すぐに左の側頭部がやけに暖かいことを発見した。
「あ。起きた?」
 天使のような声がして、俺は完全に覚醒した。左耳の下でモゾモゾしているこれは何だ
ろう。
「あの……。そろそろ頭上げてくれないと、わたし、ちょっと……」
 朝比奈さんの困ったような声だ。身体を起こして、俺は自分の位置を確認した。
 夜の公園のベンチの上だ。
 何と言うことだ。俺は、朝比奈さんの膝枕で寝ていたようだった。そして寝ていたが故
に、その記憶がないのだった。 もったいない。
「もう、脚が痺れちゃってたいへんです」
 朝比奈さんは恥ずかしそうに笑いながらうつむく。どこで着替えたのかメイドさん衣装
から北高のセーラー服に早変わ りしている。夕方から夜中になっているんだから着替え
るヒマはあっただろうが、俺はどんくらい寝てたんだ。というか、なんで寝てたんだ。
「時間跳躍の方法を知られたくないからです。ええと、禁則ですから……。怒った?」
 いやあ全然っすよー。ハルヒのやったことなら殴ってますが、朝比奈さんならオール
オッケーです。
 それにしても、さっきの部室の椅子に座って目を閉じたと思ったら、いきなり夜の公園
にいるとは。それもこの公園に は少々思い出があるぞ。いつぞや長門に呼び出されて来
たのもこの公園だった。ここは変わり者たちのメッカなのか?
 俺はバリバリ頭を掻いた。まず訊いておきたいことがある。
「今はいつです?」
 俺の横でベンチにちょこんと腰掛けている朝比奈さんは、
「出発点から三年前の、七月七日です。夜の九時頃かな」
「マジですか?」
「マジです」
 真剣なお顔をなさった。
 えらく簡単に来ちまったもんだよな。しかしその言葉を鵜飼いの鵜のように丸呑みする
ほど俺は単純じゃないのだ。ど こかで確認することが必要だ。117にでも電話するか。
 俺がそう伝えようとすると、不意に左肩が重くなった。びく。俺の肩に朝比奈さんの頭
が載っている。くったりした朝 比奈さんが身体をもたせかけており、これは何の意思表
示であることだろう。
「朝比奈さん?」
 返事はない。
「あのー……」
「すう」
 すう?
 首を前方斜め八十五度くらいひねって見ると、朝比奈さんは目を閉じ唇を半開きにして、
くうくう寝息を立てていた。 なんだなんだ。
 ガサガサ----。
 突然、背後の植え込みが不自然に揺れて俺の心臓を脅かした。なんだなんだ。
「ちゃんと寝てますか?」
 言いつつ暗い植え込みから出てきたのは……、またしても朝比奈さんだった。
「あ。キョンくん、こんばんは」
 朝比奈さんゴージャスバージョンである。隣で眠る朝比奈さんより何年か年長の、あち
こち成長しまくっている朝比奈 さんだ。可愛さそのまま、グラマー度に大幅なプラス修
正を施した妙齢の美人。前にも一回会ったことがある。あの時と同じ白いブラウスと紺色
ミニタイトの コーディネイトで、その朝比奈さんは俺たちの前まで進み出た。
「ふふ。こうして見ると……」
 大人版朝比奈さんは眠り姫朝比奈さんの頬をぷにぷにとつっついて、
「子供みたい」
 朝比奈さん(大)は、手を伸ばして朝比奈さん(小)のまとうセーラー服を懐かしそう
に撫でさする。
「この時のわたしはこんなだったの?」
 俺は朝比奈さん(小)の微かな吐息を腕に感じたまま身動きできず朝比奈さん(大)を
唖然 と見上げるのみである。
「ここまであなたを導いたのはこの子の役目で、これからあなたを導くのはわたしの役目
です」
 にこやかにおっしゃる大人の色気朝比奈さんに、俺はアホの子のような口調で、
「あー……。これはいったい……」
「詳しくは説明できません。理由は禁則だから。なのでぇ、わたしはお願いするだけで
す」
 俺は、俺にもたれてくうくう言っている朝比奈さんへと首を向けた。
「眠らせました。わたしの姿を見られるわけにはいかないので」
「なぜです?」
「だって、わたしが今のこの子の立場だったときに、わたしはわたしに会ってないもの」
 解るような解らないような理屈だ。魅惑の朝比奈さんは片目を閉じて、
「そこにある線路沿いに南に下ると学校があります。公立の中学校ね。その校門前にいる
人に協力してあげて。すぐ行っ てあげてくれますか? そっちのわたしは、ゴメンです
がオンブして行ってください。あまり重くはないと思うけど」
 ロールプレイングゲームの村人みたいなことを言う。見返りにどんなアイテムをくれる
んだろう。
「見返り……ですか? そうね、んー」
 大人版朝比奈さんは形のいい顎先に指を当てて考え込み、それから大人っぽく笑う。
「わたしから差し上げられるものはありません。でも、そっちで眠っているわたしにチュ
ウくらいならしちゃってもいい よ。ただし寝ている間にしてね」
 ものすごく魅力的な交換条件だ。揉み手をしたいくらいである。朝比奈さんの寝顔は何
かしてしまうたくなるように愛 らしい。が
「それはちょっと……」
 心情的にも状況的にもそれは俺の主義に反する次第である。こういうときには理性的な
自分の性格がうっとうしくなる ね。
「時間です。わたしはもう行かないと」
 今回のアドバイスはそれだけですか。
「あ、それから、わたしのことはこの子には内緒にしておいてください。約束、ね。指切
りする?」
 伸ばされた朝比奈さん(大)の小指に、俺は無意識のうちに指を絡めた。一分くらいそ
うしていただろうか。
「さよならキョンくん。またね」
 明るく言って朝比奈さん(大)は闇の中へと歩き去った。すぐに見えなくなる。今回は
やけに簡単に帰っちゃったな。
「さて」と俺は独り言。さっきの大人版朝比奈さんと俺は、どれくらいぶりに再会したの
だろうか。前回に奇妙なヒント をくれたときとほとんど変化していないように感じる。
ひょっとしたらあの時より以前の彼女だったのかもしれない。解らん。解るはずもない。
解るのは、あの 雰囲気からして再び違う時代の朝比奈さんとは会うことになりそうだと
いうことくらいだった。

 背負った朝比奈さんは軽いわけでもなかったが重いと言うのもアレかというような重量
で、自然と俺の 足取りも緩やかになる。耳元ですうすう寝息をたてる無邪気な顔がけっ
こう罪作りだ。吐息のかかる首筋がウズウズしてかなわない。
 俺は通行人の目をはばかるようにして(はばかりようもないが)さくさくと大人版朝比
奈さんが示した道筋を辿った。 徐々に人通りのまばらなる道を十分ほど歩いたか。ひょ
いと角を曲がったところに目的地があった。
 東中学校。谷口とハルヒの母校として俺にはお馴染みだ。ついでにお馴染みの人間が校
門に張りついていた。いましも 鉄製の門によじ登ろうとしているその小柄な人影を、俺
は見紛うことがない。
「おい」
 声を掛けてしまってから訝しむ。なぜそいつが誰か解ったのか我ながら不思議だ。後ろ
姿だし、背丈も一回りほど小さ い。黒いストレートヘアは中途半端に長かった。
 ひとえに夜の学校に校門をよじ登って侵入せんとするような知り合いが他に思いつかな
かったせいでもあるのだが。
「なによっ」
 やっと三年ほど過去に来た実感が出てきた。本当の話、俺は過去に来たらしい。
 門にへばりついたまま振り返ったその顔は、俺の知り合いのSOS団団長よりは確実に
幼い。しかし間違えようもない 目の輝きはどこまでもハルヒ色をしていた。Tシャツに
短パンのラフな恰好をしていてもその印象は変わらない。三年前の今、涼宮ハルヒ中学一
年生。朝比奈さ んが協力しろと言ったのはこいつのことか。
「なに、あんた? 変態? 誘拐犯? 怪しいわね」
 ぼけた街灯の光がわずかに周囲を白く照らしている。細部の表情までは窺い知れないも
のの中一ハルヒはあからさまに 不審人物を見る目になっていた。夜中に学校へと忍び込
もうとしている女と、眠りこける少女を背負ってウロウロしている俺とどっちがより怪し
いか。あまり考 えたくない問題だが。
「おまえこそ、何やってるんだ」
「決まってるじゃないの。不法侵入よ」
 そんな堂々と犯罪行為を宣言されてもな。居直りにもほどがあるぜ。
「ちょうどいいわ。誰だか知らないけどヒマなら手伝いなさいよ。でないと通報するわ
よ」
 通報したいのはこっちだ。だがしかし、アナザー朝比奈さんとの約束がある。でも何だ
な、過去に来てまで俺に付きま とうのか、涼宮ハルヒという存在は。
 ハルヒはぴょんと鉄扉の内側に飛び降りて、閂を固定していた南京錠を開けた。何でお
前が鍵を持ってるんだ?
「隙を見て盗み出したの。ちょろいもんだわ」
 完璧に泥棒だ。ハルヒは校門の鉄扉をゆっくりとスライドさせて、俺に手招きをした。
三年後より頭半分くらい低い背 丈に歩みより、俺は朝比奈さんをかつぎ直した。
 東中学は正門入ってすぐがグラウンドになっていて、その向こうに校舎がそびえている。
ハルヒは真っ暗なグラウンド を斜めに横切るように歩き始めた。
 暗がりで幸いだった。このぶんでは俺と朝比奈さんの顔もよく見えていまい。三年後の
ハルヒは、よもや俺と朝比奈さ んとに中一時代に会っていたなどとチラリとも考えてい
ないようだったから、そうであってくれないと困る気がする。
 ハルヒは運動場の隅っこまで真っ直ぐ前進すると、体育用具倉庫の裏へ俺を連れて行く。
錆だらけのリアカーに車輪付 き白線引き、石灰の袋が数個転がっていた。
「夕方に倉庫から出して隠しておいたのよ。いいアイデアでしょ」
 自慢してハルヒは自分の体重くらいありそうな粉袋を荷台に積み込み、
取っ手を持ち上げた。リアカーを危なっかしく 押している手つきがやけ
に子供っぽく思えた。中一じゃ子供も同然か。
 俺はこんこんと眠り続ける朝比奈さんを慎重に降ろすと用具倉庫の壁にもたせかけた。
しばらくそうしててください。
「代わってやるよ。それよこせ。線引きはお前持て」
 そんな協力態勢を見せたのが悪かったのだろうか。ハルヒは使えるモノは狂ったロボッ
トでも使うといった具合に、俺 をこき使った。この性格は昔も今も変化しておらず、お
そらく内面的性格も三年の月日では少しも成長しなかったと見える。
「あたしの言うとおりに線引いて。そう、あんたが。あたしは少し離れたところから正し
く引けてるか監督しないといけ ないから。あっ。そこ歪んでるわよ! 何やってんの
よ!」
 見ず知らずのはずの高校生に平気で命令する気合いは、やはりどこまでもハルヒらしい。
もし俺自身が初対面で、こん な女子中学生に出くわしたら真性のヤバイ奴だと思ったこ
とだろう。
 長門や朝比奈さんや古泉に出会う前だったなら。
 宿直の教師が出てきたり付近の住人の通報を受けたパトカーがやってくることもなく、
俺はハルヒ指示のもと、三十分 ほどグラウンドを右往左往して白線を引いていった。
 谷口の言っていた突如グラウンドに出現した謎のメッセージが、まさか俺が書いたもの
だったとはな。
 俺は苦心の末描ききった模様群をしらじらと眺めて黙り込んでいるとハルヒが横にやっ
てきて、白線引きを奪い取っ た。微調整のように線を加えながら、
「ねえ、あんた。宇宙人、いると思う?」
 突然だな。
「いるんじゃねーの」
 俺は長門の顔を思い浮かべる。
「じゃあ、未来人は?」
「まあ、いてもおかしくはないな」
 今は俺自身が未来人だ。
「超能力者なら?」
「配り歩くほどいるだろうよ」
 無数の赤い光点が脳裏をよぎる。
「異世界人は?」
「それはまだ知り合ってないな」
「ふーん」
 ハルヒは白線引きをがしゃんと投げ出すと、ところどころを粉にまみれさせた顔を肩口
で拭って、
「ま、いっか」
 俺は落ち着かない気分になった。もしや、ヘタなことを言ってしまったのではないだろ
うか。ハルヒは俺を上目づかい に見て
「それ北高の制服よね」
「まあな」
「あんた、名前は?」
「ジョン・スミス」
「……バカじゃないの」
「匿名希望ってことにしといてくれ」
「あの娘は誰?」
「俺の姉ちゃんだ。突発性眠り病にかかっていてな。持病なんだ。所構わず居眠りをする
んで、かついで歩いていたの さ」
「ふん」
 信じていない顔でハルヒは下唇を噛んで横を向く。話を逸らそう。
「それで、これはいったい何なんだ」
「見れば解るでしょ。メッセージ」
「どこ宛だ? まさか織姫と彦星宛じゃないだろうな」
 ハルヒは驚いたように、
「どうして解ったの?」
「……まあ、七夕だしな。似たようなことをしている奴に覚えがあっただけさ」
「へえ? ぜひ知り合いになりたいわね。北高にそんな人がいるわけ?」
「まあな」
 こんなことをしようとするのは今でも後でもお前だけさ。
「ふーん。北高ね」
 なにやら思案げにハルヒが呟いて、しばし漬け物石のように沈黙したかと思ったら、い
きなりきびすを返した。
「帰るわ。目的は果たしたし。じゃね」 
 すったすったと歩き出す。手伝ってくれてありがとうのセリフもなしか。無礼極まりな
いが、いかにもハルヒがやりそ うなことだ。しかも結局名乗りもしなかったし。俺とし
てもそっちのほうが助かるね。なんとなく。

 いつまでもこんなところにいるわけにもいかないので、俺は朝比奈さんを起こしにか
かった。ハルヒが ほったらかしにしたリアカーや石灰を倉庫の裏に戻した後のことだ。
 子猫みたいな寝顔の朝比奈さんは、ついうっかりナニかしてしまいそうなくらい可愛ら
しかったが、ぐっと堪えて俺は 緩やかに上下する肩を揺すった。
「みゅう……。ふぁ。へっ? ……なん」
 目を開けた朝比奈さんは、ひとしきりキョロキョロしたのち、
「ふぇふっ!」
 とか言いながら立ち上がった。
「なななな……なんですかココ、何がどうして今はいつですかっ!」
 何て答えればいいんだろ。俺が脳内で解答を模索していると、朝比奈さんは「あっ」と
叫んでよろめいた。暗い中でも 白い 顔がますます青ざめるのが見て取れる。
 朝比奈さんは身体中を両手で探りながら、
「TPDDが……ありません。ないよう」
 朝比奈さんは泣きそうな顔になって、まもなく本当に泣き出した。目に手を当ててベソ
をかく彼女の姿は迷子になった 幼女のようであったが、微笑ましい気分になっている場
合ではなさそうだ。
「TPDDってなんですか?」
「ひくっ。……禁則項目に該当しますが……。タイムマシンみたいなやつです。それを
使ってこの時代まで来たのに…… どこにもないの。あれがないと、元の時間に帰れな
いぃ……」
「ええと、何でないんでしょうか」
「解りません……。なくなるはずがないのに……。なくしちゃった」
 彼女の身体を触っていた違う朝比奈さんを思い浮かべた。
「誰かが助けに来てくれたりは----」
「あり得ません。ぅぅぅ」
 涙ぐみつつ朝比奈さんは何やら説明してくれた。時間平面上の既定の出来事はすでに決
定しているはずなのでTPDD が存在するならば確実に手元にあり、それがないという
ことはすなわちそれが既定の出来事であるから『無い』のはすでに決定された既定なので
ある……とかな んとか。なんのこっちゃ。
「つまり、俺たちはどうなるんですか?」
「うっうっうっ。つまり、このままです。わたしたちは、この三年前の時間平面上に取り
残されて、元の時空には戻れま せん」
 そりゃ一大事だな、と胸の内で唱えながらも、俺は今ひとつ緊迫感に欠けていた。大人
の朝比奈さんはこの事態に対す る警告を何もしていなかった。TPDDとやらを掠め取
り、現況を作り出したのはおそらく彼女だ。朝比奈(大)さんはそのために過去に来たの
だと俺は推理す る。既定事項ね。この朝比奈さんよりさらに未来の朝比奈さんにとって
はこれが既定だったんだな。
 俺はしくしく泣いている朝比奈さんに目を転じてグラウンドへと視線を彷徨わせた。ハ
ルヒ考案俺作製の謎の白線がの たくっている。何も知らずにこれを見ることになる明日
の東中関係者にはさぞかし不気味なことだろうな。これがどこかの宇宙人に対する罵倒語
になってないこ とを祈るね……などと考えかけた俺の頭に天啓が舞い降りたのはその時
だ。
 なにぶん暗かった。校庭は不確かな街灯の明かりがぼんやり照らしているだけだし、描
いた白線はとにかくデカくて、 離れてみないと全容が解らない。
 だから、気付くのが遅れた。
 俺はポケットを探って長門から渡された短冊を取り出した。そこにある謎の幾何学模様。
「何とかなるかもしれません」
 そう言った俺を朝比奈さんは涙目で見て、俺は短冊を見続ける。
 そこに描かれている文様は、たった今ハルヒと俺が共同で校庭に書き殴った空へのメッ
セージと同じものだったのだ。

 そそくさと東中を立ち去った俺たちが足を止めたのは、駅前の豪華分譲マンションの前
である。
「ここは……長門さんとこ?」
「ええ。いつから地球にいるのか詳しく訊いていませんが、あいつのことですから三年前
にもこの世にいたでしょう…… たぶんね」
 マンションの玄関口で708号室を呼び出してみた。ぷつん、と音がして、インターホ
ンに誰かが出たことを如実に示 す。おどおどする朝比奈さんの手の温もりを袖に感じつ
つ、俺はマイクに言った。
「長門有希さんのお宅でしょうか」
『…………』とインターホンは応えた。
「あー。何と言ったらいいものか俺にも解らんのだが……」
『…………』
「涼宮ハルヒの知り合いの者だ----って言ったら解るか?」
 電線の向こうで凍り付くような気配がした。しばらく沈黙。そして
『入って』
 カシャンと音を立てて、玄関の鍵が開く。おっかなびっくり状態の朝比奈さんを連れて、
俺はエレベータに乗り込ん だ。七階へと上昇、目指す部屋はかつて俺が訪れた708号
室である。ベルを押してすぐに、だが、ゆっくりと扉が開いた。
 長門有希がそこに立っていた。俺は現実喪失感覚に襲われた。俺と朝比奈さんが過去に
跳んできたってのは本当なの か?
 そう思ってしまうほど、長門は何一つ違っていなかった。ちゃんと北高のセーラー服を
着て、無表情に俺を見つめる眼 差しや、体温や気配を感じさせない無機質な姿も俺の
知っている長門とまったく同じものだった。ただ、最近の長門になくて、この目の前の長
門にあるものがあ る。俺がこいつと最初に出会ったときにかけていた眼鏡。
 いつしか眼鏡っ娘でなくなった長門が以前かけていた眼鏡が、この長門の顔に引っか
かっていた。
「よお」と俺は片手を上げて愛想笑い。長門は例によっての無表情。朝比奈さんは俺の背
後で隠れるようにして震えてい る。
「入れてもらっていいか?」
「…………」
 無言で長門は部屋の奥へ歩き出した。イエスという意味だと解釈して、俺と朝比奈さん
は上がり込ませてもらうことに した。靴を脱いでをリビングへと向かう。三年後と変わ
らず殺風景な部屋だ。長門は突っ立って、俺たちが入ってくるのを待っていた。しょうが
ないので俺も 立ったまま、事情を説明することにした。どこから話せばいいのかね。ハ
ルヒと出くわした入学式の日のことからかな。それだと長くなるな。
 俺はところどころをはしょりながら、一通りのことを説明した。眼鏡を通して無感情な
視線が俺を見つめる中、五分ほ ど話しただろう。我ながら要領を得ないハルヒ物語のあ
らすじだと思うけども。
「……で、だ。三年後のお前はこんなもんを俺にくれたんだ」
 俺が提出した短冊を長門は瞬き一つせずに眺めて、奇怪な文字群に指を這わせた。バー
コードを読み取っているような 動き。
「理解した」
 長門は簡単にうなずいた。本当かよ。いや待て、それより気がかりなことが発生した。
 俺は額に手を当てて考え考え
「俺はとっくに長門と知り合っていたわけだが、三年前……今日のお前……つまり今のお
前だ。お前は俺たちと出会うの は今日が初めてなんだよな」
 我ながら何言ってんだかななセリフだ。しかし長門は眼鏡の端を光らせながら答えた。
平然と。淡々と。
「そう」
「それでその……」
「異時間同位体の該当メモリアクセス許可申請。時間連結平面帯の可逆性越境情報をダウ
ンロードした」
 何一つとして解らない。
「現時点から三年後の時間平面上に保存する『わたし』と、現時点にいるこの『わたし』
は同一人物」
 それがどうした。それはそうだろう。だからと言って、三年前の長門が三年後の長門と
記憶を共有しているわけはな い。
「今はしている」
 どうやって?
「同期した」
 いや、解らんけど。
 それ以上答えず、長門はゆっくり眼鏡を外した。無感動な瞳が二つ、俺を見上げて瞬き
する。それは確かに見慣れた本 好き少女の顔だった。俺の覚えている長門有希だ。
「何で北高の制服着てんだ? もう入学してんのか」
「してない。今のわたしは待機モード」
「待機って……あと三年近くも待機しているつもりなのか?」
「そう」
「それはまた……」
 えらく気の長い話だ。退屈じゃないのか? しかし長門は首を横に振る。
「役目だから」
 清浄な瞳は、真っ直ぐに俺に向かっている。
「時間を移動する方法は一種類ではない」
 長門は感情なしの声で喋った。
「TPDDは時空制御の一デバイスでしかない。不確かで原始的。時間連続体の移動プロ
セスにはさまざまな理論があ る」
 朝比奈さんが手を握り直した。
「あのう……それはどういう」
「TPDDを用いた有機情報体の転移には許容範囲であるがノイズが発生する。我々に
とってそれは完全なものではな い」
 我々ってのは情報思念体のことだろう。
「長門さんは完全な形で時間跳躍できるの?」
「形は必要ではない。同一の情報が往復できさえすれば充分」
 現在過去未来を行ったり来たりね……。
 朝比奈さんにできるのだったら、長門にもできるのかもしれない。たぶん、長門のほう
が余計に余分な力を持っている のだろうからな。それどころか長門と古泉を比べても、
朝比奈さんは一番物が解っていないのではないかと実は疑い始めている。
「それはいいんだけどさ」
 俺は朝比奈さんと長門の間に割って入った。今はタイムトラベル談義をしている場合で
はないだろう。俺と朝比奈さん がどうやったら三年後に帰れるのかが問題だ。
 だが、長門は簡単にうなずいた。
「可能」
 そして立ち上がると、居間の隣の部屋へと続く襖を開けた。
「ここ」
 和室だった。畳敷き。畳以外の何もない殺風景さは長門の部屋らしくて納得だが、こん
な客間に通されて俺はどうした らいいんだ? もしやどこかにタイムマシンでも隠され
ているのか? などの疑問を感じていると、長門は押入れから布団を取りだして敷き始め
たそれも二組。
「まさかとは思うが……。ここで寝ろって言うのか?」
 長門は掛け布団を抱えたまま俺を振り返った。アメジストのような瞳が俺と朝比奈さん
を映している。
「そう」
「ここで? 朝比奈さんと? 二人で?」
「そう」
 横目で窺うと、朝比奈さんは及び腰になって、ついでに真っ赤に顔を染めていた。そ
りゃそうだろうね。
 しかし長門は構うことなく、
「寝て」
 そんな単刀直入な。
「寝るだけ」
 まあ……そのつもりだけど。俺と朝比奈さんはどちらからともなく顔を見合わせた。朝
比奈さんは顔を赤くして俺は肩 をすくめる。ここは長門にすがるしかない。寝ろと言う
なら寝させてもらう。目が覚めたら元通りの世界にいたってことになれば簡単なんだけど
な。
 長門は壁際の蛍光灯スイッチに手を掛けて、何事かを呟いた。おやすみではなかったと
思いかけた時、パチリと音がし て電気が消えた。
 しゃあない寝るか、と布団をかぶった。

 と思ったら、また点いた。パチパチと瞬いて蛍光灯が光量を安定させていく。ん? 何
だこの違和感 は。窓の外はさっきと同じ暗い夜空。
 上半身を起こすと、朝比奈さんも両手で掛け布団の端を握りしめつつ起きあがった。
 端整な童顔に浮かんでいるのは困惑の表情である。二つの瞳が「?」
と俺に問いかけているがもちろん答えられない。
 長門が立っている。さっきと同じ、スイッチに手を掛けた状態で。
 その顔に長門らしからぬ、感情めいたものがあるような気がして、俺はマジマジと白い
顔を見やった。何かを伝えたい のに葛藤によって何も言えないでいるような、ずっとこ
いつの無表情に付き合っている奴でないと判別できないだろう微細な感情だ。俺の気のせ
いでないという 保証もないが。
 隣で空気を吸う音がして、見ると朝比奈さんが右手首に巻いたデジタル腕時計をなにや
ら操作していた。
「えっ? うそ……! えっ? ほんとうに?」
 俺は彼女の腕時計をかすめ見る。まさかそれがTPDDとやらではあるまいな。
「違います。これはただの電波時計です」
 標準時電波を受信して自動時刻合わせできるやつか。朝比奈さんは嬉しそうに微笑んで、
「よかった。帰って来れました。わたしたちが出発した七月七日……の午後九時半過ぎで
す。本当によかった……はふ」
 心底安堵し切った声だった。
 戸口で佇む長門はあの長門だった。眼鏡っ娘以前以後で分類するなら確実に以後の、ほ
んの少し硬さが緩んだ長門有希 だ。三年前のこいつに出会ってそれが解った。俺がハル
ヒに連れて行かれて文芸部室で対面した長門より、目の前の長門は確かに変化を遂げてい
る。たぶんだ が、本人にも解らないくらいの。
「でも、どうやって?」
 茫然としている朝比奈さんに、長門は無感動な口調で、
「選択時空間内の流体結合情報を凍結、既知時空間連続体の該当ポイントにおいて凍結を
解除した」
 日本語とも思えないことを言い、言葉を句切ってから言い足した。
「それが今」
 立ち上がりかけて朝比奈さんは、くたくたと両膝をついた。
「まさか……。そんな……なんてこと……。長門さん、あなた……」
 長門は黙っている。
「どういうことです?」と俺。
「長門さんは----時を止めたんです。たぶん、この部屋ごとわたしたちの時間を、三年間
もの間。そして今日になっ て時間凍結を解いたのね……?」
「そう」と長門は答えて肯定の仕草をした。
「信じられません。時間を止めるなんて……わわわ」
 朝比奈さんは腰を砕けさせたまま息を吐いた。そして俺は考えた。
 どうやら俺たちは無事に三年後に帰ってきたらしい。朝比奈さんの反応を見る限りそれ
は確かだ。裏表のない人だから な。それはいい。三年前からもとの時間に帰還を果たし
た理屈が、時間を止めたってのも----信用しよう。今の俺は何が出てこようともだいたい
納得できる 包容力を体得している。それもいい。いいことずくめだ----が。
 俺がこの長門宅を訪れたのはこれが初めてではない。一ヶ月あまり前にも招待されて上
がり込んだことがある。ただし その時は居間止まりで、この客間には入ってもいないし
こんな部屋があるとも知らなかった。だから、えーと、つまりどうなるんだ?
 俺は長門を見た。長門は俺を見ている。
 ----つまり、俺が最初に訪問してこいつの電波話を聞いていたとき、この隣の部屋には
別の『俺』が寝ていたの だ。
 なんてこった、そういうことになるじゃないか。
「そう」と長門。俺は眩暈に襲われる。
「……おい。要するに、じゃあお前は、あの時、大概の事情を知っていたんだな? 俺の
ことも、今日のことも」
「そう」
 俺にしてみれば長門との最初の出会いは、ハルヒがSOS団の樹立を思いついた新緑の
季節のあの日だった。だが、長 門はそれより早く、三年前の七夕の日に俺に会っていた
ことになる。それは俺にとってはついさっきの事なのに、もうそれから三年が経過してい
るのだと言う。 頭がおかしくなりそうだ。
 俺と朝比奈さんは仲良く揃って茫然自失の体であった。いつも器用な真似ばかりすると
思っていたが、まさか時間まで 止めてしまうとは思いもしなかった。無敵じゃないか、
それって。
「そうでもない」
 否定の動作。
「今回のは特別。特例。エマージェンシーモード。滅多にない。よほどのことがないと」
 そのよほどのことが、俺たちだったわけだ。
「ありがとよ、長門」
 とりあえず礼を言っておく。それくらいしかやりようがないな。
「別に、いい」
 愛想の欠片もなく長門はうなずいた。そして俺に、あの幾何学模様の短冊を突きつけた。
受け取ると、紙の質が歴然と 劣化していた。三年くらい放っておけばこんな感じになる
だろうというまさにそんな感じ。
「ところでさ。この短冊の模様なんだけど、なんて書いてあるか読めるか?」
 何の気なしに尋ねた。ハルヒのデタラメメッセージが何者かに読めるとは思っていない。
だからそれは単なる冗談のは ずだった。
「私は、ここにいる」
 長門は答えた。俺は虚をつかれる。
「そう書いてある」
 俺はやや混乱しつつ、
「ひょっとしてだが……その地上絵か記号みたいなの、どっかの宇宙人が使っている言語
になってるんじゃないだろう な?」
 長門は、答えなかった。

 長門の部屋を辞した俺と朝比奈さんは、まばらな星が舞う夜空の下を歩いていた。
「朝比奈さん、俺が過去に行くことに何の意味があったんですか?」
 朝比奈さんは懸命に何かを考えているふうであったが、ついと顔を上げると消え入りそ
うな声で
「ごめんなさい。わたし、その……実は、ええと……よく解っていないんです……。わた
しはその、下っ端……いえ、末 端……いえ、その研修生のようなもので……」
「その割にはハルヒの近くにいるようですが」
「だって、涼宮さんに捕まってしまうなんて、考えてもみなかったもの」
 ちょっと拗ねたように言う。そんな顔も可愛いですよ、朝比奈さん。
「私は上司というか、上の人というか……その人の命令に従っているだけなの。だから自
分でもしていることの意味が解 らなかったりするんです」
 恥じるように話す朝比奈さんを見ながら、俺はその上司とやらは大人版朝比奈さんなの
ではないかと考えていた。根拠 はない。未来人の知り合いはノーマル朝比奈さんと彼女
しかいないから、なんとなくだ。
「そうですか」
 呟きながら首をひねる。それにしても解らない。あの大人版朝比奈さんは、俺にヒント
を教えに来てくれたくらいだか ら俺たちがこれからどうなるのかを知っているはずだよ
な。でも、この今の朝比奈さんには何も教えてやっていないようだ。どういうことなんだ。
「うーむ」
 呻吟してみたものの、朝比奈さんに解らんもんがおれに解るわけがない。長門も言って
いた。時間移動のプロセスには 色々あるとかなんとか。未来人には未来人なりの規則や
法則があるのだろうよ。いつか誰か教えてくれるさ。すべてのオチが付くときに。
 朝比奈さんとは駅前で別れた。小さな人影は何度も俺にお辞儀をしながら、名残惜しそ
うに去っていく。俺も帰路につ こうと歩き始めて、その時やっと俺は鞄を部室に置きっ
ぱなしにしていることに気付いた。

 翌日。つまり七月八日だ。俺の意識ではちゃんと翌日なのだが、どうやら俺の肉体的に
は三年と一日ぶ りの学校ということらしい。手ぶらで登校した俺は真っ先に部室へ向か
い、自分の鞄を拾い上げてから教室に行った。俺より先に来たんだろう、朝比奈さんの鞄
はすでになかった。
 教室にはすでにハルヒがいて、殊勝な顔付きで窓の外を眺めている。いつ宇宙人が舞い
降りるかと指折り数えて待って いるような雰囲気だ。
「どうした。昨日からやけにメランコリーだな。毒キノコでも拾い食いしたのか?」
 声を掛けて俺が席に着くと、ハルヒはわざとらしく嘆息しやがった。
「別に。思い出し憂鬱よ。七夕の季節にはちょっと思い出があるのよ」
 思わず背筋が寒くなった。が、それは一体何だ----とは、俺は訊かない。
「そうかい」
 ふいっとハルヒはまた雲の観察に向かった。俺は肩をすくめる。爆弾の導火線で火遊び
するつもりはない。それが見識 ある常識人の行動というものなのさ。

 放課後の文芸部室改SOS団アジトである。
 ハルヒは一言、「笹っ葉、片づけといて。もう用無しだから」と命じて帰っちまった。
机の上に投げ出された『 団長』 と書かれた腕章がうら寂しい。なに、明日になればまた
元のイカレ女に戻って俺たちに無道なことを言い出すに決まっている。そういう奴だ、ア
レは。
 朝比奈さんの姿もない。いるのは長門有希と、俺とチェスの対戦をしている古泉だけ
だった。熱心に布教活動をする古 泉の熱意に負けて一応駒の動かし方だけは教わった。
 オセロでは分が悪いと見てチェスを持ってきたのかと勘ぐったのは早とちりだったよう
だ。
 古泉はオセロ同様、激しく弱かった。
 俺は古泉のポーンを自分のナイトで取りながら、無表情な顔で興味津々に盤面を覗き込
んでいる長門の横顔に目をやっ て、
「なあ、長門。俺には全然解らないんだが、朝比奈さんはちゃんと未来人なんだよな?」
 長門はゆるりと顔を傾げた。
「そう」
「それにしては、過去に行ったり未来に帰ったりするプロセスにツジツマが合ってないよ
うな気がするんだが……」
 そうだとも。過去と未来に連続性がないと言うのなら----俺たちが三年前に行ってそこ
で眠り続けることで現在に 戻ってきたのなら、今俺たちのいる『ここ』は俺たちが出発
した『昨日』からの世界とは違う世界のはずだ。しかし結果として俺はハルヒにいらぬ知
恵をつけて しまい、どうやらその知恵がハルヒを北高に呼んだり人間以外探しをさせて
しまった……可能性がある。それもこれも俺が三年前に行かなかったらああなってい な
かったかもしれない。ということは過去と未来にはやはり連続性があるということになる。
それは前に聞いた朝比奈さんの説明と矛盾する。俺だってそれくら いの知恵は回るぜ。
「無矛盾な公理的集合論は自己そのものの無矛盾を証明することができないから」
 淡々と長門は言って、それでもう充分だろうというような微妙な表情を作った。お前は
それで充分説明したつもりなの かもしれないが俺にはスッパリと理解できん。長門は白
い喉をさらすようにして俺を見上げ、
「そのうち解る」
 と、だけ言い残して定位置に帰って読書を再開する。代わりに古泉が口を開き、
「こういうことですよ。今、僕のキングはあなたのルークによって王手をかけられていま
す。困ったなあ、どこに逃げま しょうか」
 言いつつ古泉は黒のキングをつまみ上げると、ひょいと制服の胸ポケットに落とし込ん
だ。手品師のように両手を広げ て、
「さあ、この僕の行動のどこに矛盾があったでしょうか」
 俺は白いルークを指で弄びながら思った。アホみたいな禅問答に付き合うつもりも、抽
象的で頭のよさげなことを言っ て自らの虚栄心を満たすつもりもない。だからそんなこ
とは言わないのさ。
 とにかく----。ハルヒが矛盾の塊であるのは間違いなさそうだ。そしてこの世界もな。
「もっとも我々の場合、キングにたいした値打ちはないのですよ。より重要性があるのは、
あくまでクイーンなのでね」
 黒のキングが消え去った升目に俺は白のルークを置く。クイーンナイトの8。
「……次に何が起きるのかは知らんが、もっと頭を使わなそうなことが起きて欲しいもん
だな」
 長門は答えず、古泉は微笑んで、
「無事平穏が一番だと思いますが、あなたは何かが起きたほうがいいのですか?」
 俺は鼻を鳴らして勝敗表の自分の名が書かれている欄に○を一つ書き込んだ。

ミステリックサイン
 予想通り、ハルヒは期末試験期間中にステイタスをメランコリー状態から回復させて、
また好き勝手に振る舞うように なっていた。俺はと言えばその反作用で押し出されたブ
ルー色をバトンタッチされたような鬱々真っ盛りだ。答案用紙が配られるたびにどんどん
悪化していくよ うな気がするね。この俺の憂鬱を共有できるのは谷口くらいだろう。中
間テストでは赤点レーダーに引っかかるかどうかというギリギリ低空ラインを仲良く飛び
回った戦友である。人はせめて自分よりアホな奴がいて欲しいよなと思いがちな動物だ。
いてくれたら相対的に安心できるからな。絶対的に見ると安心している 場合ではないの
だが。
 俺の後ろの席でテストを受けていたハルヒは、なぜかいつも時間が余るようで試験終了
三十分前にはたいてい机で寝息 を立てていた。
 いまいましい。
 テスト期間中にはすべての部活動は中止され、今日あたりに再開されるのが普通なのだ
が、なぜかSOS団は頼まれた わけでもないのに年中無休で昨日も一昨日も営業してい
た。学校お仕着せの理論はSOS団的部活動には通用しないようである。当たり前だ、最
初の第一歩から 間違っている。この謎の団は部活でも何でもないので問題ないのだ。そ
れがハルヒ理論である。
 先日もそうだ。せっかく俺が勉強意欲を限界まで高めたちょうどいいタイミングだった
のに、俺はハルヒに袖を引っ張 られて部室へと連れて行かれた。
「ちょっとこれを見なさい」
 そう言ってハルヒが俺に示したのは、いつぞや他部から強奪してきたパソコンのディス
プレイだった。
 しかたがないので見た。何かわけの解らない落書きをドローイングソフトが表示してい
た。円の中に酔っぱらったサナ ダムシがクダを巻いているような絵とも文字とも絵文字
ともつかないものである。幼稚園児が描いたとしか思えない。
「なにこれ」
 正直に言った。
 途端、ハルヒはアヒルのような口をして、
「見て解らないの?」
「解らんね。全然解らん。これに比べたら昨日の現国の試験のほうがまだ解るくらいだ
な」
「何言ってんの? 現国のテスト、すごく簡単だったじゃないの。あん
なのあんたの妹でも満点取れるわ」
 実に腹立たしいことを発言し、
「これはね、あたしのSOS団のエンブレムよ」
 と答えて、立派なことを成し遂げた直後のような誇らしげな顔をした。
「エンブレム?」と俺。
「そう。エンブレム」とハルヒ。
「これが? 徹夜明けで休日出勤を二ヶ月連続やって万年係長候補が迎え酒をしながら歩
いた跡にしか見えないけどな」
「ちゃんと見なさいよ。ほら、真ん中にSOS団って描いてあるでしょう」
 そう言われてみるとそんな気がしないでもないようなあるようなでも大声では言いかね
るくらいには見えないでもない ね。さて俺はいくつ否定後を連ねたかな。自分でも数え
る気がないので誰かヒマな奴が数えてくれ。
「一番ヒマなのはあんたでしょう。どうせ試験勉強もしないくせに」
 さっきまではする気満々だったんだ。が、言われてみれば今は確かにねえな。
「これをSOS団サイトのトップページに載せよう思ってるの」
 そう言えばそんなもんもあった。トップページしかないショボクレサイトだが。
「訪問者が増えないのよ。遺憾を覚えるわ。不思議なメールもちっとも来ないしね。あん
たが邪魔したせいよ。みくる ちゃんのエロ画像で客を呼ぼうと思ったのに」
 朝比奈さん懸命のメイド画像のすべては俺の物であり、他の誰にも見せる気はない。は
した金で買えない物はこの世に ちゃんとあるものさ。
「あんたの作ったこのサイトだけど、ほんっと、しょうもないわよね。賑やかすものが全
然ないのよ。だからあたしは考 えたの。SOS団のシンボルみたいなものを貼り付けた
らどうかって」
 とっととネットから撤退しろよ。こんなアホなHPを間違って見てしまった奴が気の毒
だ。コンテンツが何もないので 更新されることもなく、あるのは『SOS団サイトによ
うこそ!』という画像データとメールアドレス、アクセスカウンタくらいである。そのカ
ウンタは三桁に 達していない上に、そのうちの九割はハルヒが自分で回しているみたい
なもんだぞ。
 俺はハルヒが起動したブラウザに手作りサイトが出てるのを眺めながら、
「お前が日記でも書いたらどうだ? 業務記録を付けるのは団長の仕事だろ。宇宙船の船
長だって航海日誌をつけるんだ ぜ」
「いやよ、めんどくさい」
 俺だってそんな面倒なことをしたくない。ここでの一日を描写しても、長門がどんな本
を読んでたとか古泉と五目並べ で勝利したとか朝比奈さんは今日も可愛いとかハルヒは
口を閉じて黙って座ってろとか、それくらいのことしか書くこともなかろう。書いていて
楽しくないもの が読んでも楽しいとは思えない。ゆえに俺はそんな誰にとっても娯楽と
ほど遠いことはしないのさ。
「さ、キョン。このシンボルマークをサイトの頭に表示するようにしなさい」
「お前が自分でしろ」
「やり方わかんないもん」
「だったら調べろ。解らんからって他人任せにしてたら永遠に解らんままだぜ」
「あたしは団長なの。団長は命令するのが仕事なのよ。それにあたしが全部やっちゃった
らあんたたちのする事がなくな るでしょう? 少しはあんたも頭を使いなさいよ。言わ
れたことをやってるだけじゃ人間進歩しないわよ」
 お前は俺にやれと言っているのか、するなと言っているのかどっちなんだ。日本語は正
しく使ってくれ。
「いいからやんなさい。そんな詭弁じゃあたしは騙されないからね。有り難がるのは紀元
前のヒマなギリシャ人くらい よ。ほら早く!」
 これ以上夜明けのカラスみたいにやかましく鳴くハルヒの声を聞いているのも夥しく耳
障りだったので、俺はしぶしぶ HTMLエディタを起動すると、子供が暇つぶしで描い
たようなハルヒ画伯イラストを適当なサイズに縮小してからファイルに貼り付け、そのま
まアップロード した。
 確認のためブラウザをリロードしてみる。必要のないSOS団エンブレムは、ちゃんと
ネット世界にその足跡を残して いるようだった。チラリと見たアクセスカウンタの数字
は、やはりまだ二桁のままだった。このままハルヒしか見ないサイトでいたらいい。こん
なマヌケサイト を作ってるのが俺だと知られたくないからな。

 そんなことがあったりした俺の憂鬱を誘う日々も、何とか今日で第一段階を終了し、つ
かの間の休息が 明日から始まろうとしていた。その休息の名を試験休みという。夏休み
までの準備期間であり、俺の解答用紙に教師がバツマークを朱入れするための時間でもあ
ることだろう。
 くそいまいましい。
 くさくさしていてもしかたがないので、俺はSOS団が巣くった上にアジト化している
文芸部部室へと足を運んだ。せ めて朝比奈さんを眺めて安らぎを得ようとしたのである。
 長門は黙って本を読み、古泉はニヤつきながら一人で詰め将棋をし、朝比奈さんはメイ
ド姿で給仕をしてくれ、ハルヒ は何かわけの解らないことを言ったり喋ったり喚いたり
叫んだりしていて、俺はうんざりとその言葉に耳を傾けるという構図がここ最近のパター
ンだった。
 最近も何も、最初からこうだったような気もするが。
 俺は沈んだ気持ちでドアをノックした。舌足らずな朝比奈ボイスで「はぁい」と返答が
あることを期待したのだが、部 屋から湧き出したのは、
「どうぞ!」
 投げやりなハルヒの声であり、入ってみるとハルヒしかいなかった。団長机に肘をつい
て、コンピュータ研を脅迫して 手に入れたパソコンをなにやら操作している。
「なんだ、お前だけか」
「有希もいるわよ」
 確かに長門はテーブルの隅で本を広げ、いつものように置物となっていた。あいつはこ
の部室の付属物みたいなものだ から人数に入れなくていいのさ。SOS団に入るという
言質もなかったし、正式には文芸部員だ。だがここは言い直しておくべきだろう。
「なんだ、お前と長門だけか」
「そうだけど、なんかクレームでもあるわけ? なら聞いてあげるわ、あたしはここの団
長だもんね」
 俺のお前に対するクレームを箇条書きにしたらそれだけでA4ノート両面はびっしり埋
め尽くされることになるぞ。
「あたしこそがっかりよ。ノックなんかするから、てっきりお客が来たんじゃないかと
思ったじゃない。ややこしい真似 しないでよね」
 朝比奈さんの生着替えをうっかり目撃しないように気をつけているんだよ。あの迂闊で
愛らしいかたは、ドアに施錠す ることをなかなか覚えないからな。
 それにお客って何だ? どんな客がこの部屋を訪れるって言うんだ。
 するとハルヒは、俺を蔑みの表情で見つめた。
「あんた、覚えてないの?」
 思わずギクリとした。三年前の七夕がどうとか言うつもりじゃないだろうな。
「あんたがやったことじゃないの。あたしの許可も得ずにね」
 何のことかなぁ。
「部室棟の掲示板に、あんたが貼ったポスターのことよ」
 ああ、あれか。俺は安堵の息を吐く。
 生徒会に何とかSOS団を認可させようとして俺がでっち上げた架空の活動方針がある。
不思議探し団では話になるま いと判断した俺は、よろず悩み相談所としてSOS団を存
続させるべく生徒会に働きかけたのだ。執行部の連中にはアホかと言われてあっけなく終
了したが。
 しかし俺はすでにポスターまで手書きで作っていた。何と書いていたかよく覚えていな
いが「相談ごと受け付けます」 くらいだったと思う。せっかくだからと目に付いた掲示
板に貼っておいたのだ。どうせ誰か見たとしてもSOS団に悩みを相談しに来るような気
の違った奴はい まいと踏んだわけである。どうやら正解だったらしく、今のところ依頼
人は皆無であり、とてもいいことだ。
 にしても、ハルヒはそんなことを覚えていて、実際に客が来るのを待っているのか?
今日の帰り際にでも剥がしてお いたほうがよさそうだな。本当に変な悩みを持つ生徒が
来たらややこしいことになるだろうから。
 俺が心の片隅で決意していると、ハルヒがマウスをぐるぐる回しながら、
「それより、これ見てよ。何か変なの。パソコンの調子が悪いのかしら」
 ハルヒの髪の横から覗き込む。ディスプレイが嫌々のように映しているのは、我等がS
OS団ホームページだ。だが俺 が作ったものとは微妙に違っていた。ハルヒの手による
ヘタクソな落書きエンブレムが、ギャザー処理されたみたいに歪んでいたし、カウンタや
サイトロゴも 吹っ飛んでいる。試しにリロードしてもそのままだ。まるでモザイクでも
かけたみたいな異常なデータ表示。
「こっちのパソコンじゃないな。サーバに置いてるファイルが狂ってるみたいだ」
 ネットには詳しくないが、その程度は解る。ひょっとしてと思いローカルに置いてある
サイトをブラウザで見ると正常 に表示されるからな。
「いつからこの状態なんだ?」
「さあ。この何日かメールチェックだけでサイトは見てなかったから。今日見たらこんな
んになってたのよ。どこにク レーム付ければいいの?」
 クレームを付けるまでもない。修正は簡単だ。俺はハルヒから奪ったマウスを操作して、
保存していたトップページの ファイルをサーバにある同名のデータにすべて上書きした。
再表示してみる。
「うむ?」
 サイトはクラッシュしたままだった。何度か繰り返してみても同じ結果。どうやら俺で
は手に負えない電脳技術的異常 が発生しているようだった。
「おかしいでしょう? アレかしら、噂に聞くハッカーとかクラッカーとか言うやつ?」
「まさか」と俺は否定する。どこからもリンクされず誰も見ないようなサイトをクラッキ
ングするようなヒマ人がいると も考えにくい。何かのエラーだろ。
「ムカツクわ。誰かがSOS団にサイバーテロを仕掛けているんじゃないかしら。いった
いそれは誰? 見つけたら裁判 なしで三十日間の社会奉仕活動を宣告するわ」
 ぷんすかしているハルヒから目を離し、俺は不透明光学迷彩をまとっているような長門
に視線を向けた。こいつなら何 とかしてくれるんじゃないだろうかと思う。俺の中には
勝手にコンピュータに詳しそうな長門のイメージが構築されているが、パソコンをいじっ
ているところを 見たことがない。いやむしろ、読書シーン以外がほとんどないと言うべ
きか。
 そこにノックの音。
「どーぞっ!」
 ハルヒの返答に扉を開けたのは、古泉だった。いつもの清涼感を極めたスマイルで、
「おや珍しい。朝比奈さんはまだですか?」
「二年は余分に試験があるんじゃない?」
 俺たち一年の期末最終日は三限までだった。さっさと帰宅すればいいのに、なんで揃い
も揃ってこんなところに集まり たがるんだろ。俺ってこんな友達少なかったか? それ
とハルヒ、ノックに対するツッコミを古泉に入れないのはどういうわけだ。
 古泉は鞄をテーブル横に置くと、戸棚からダイヤモンドゲームの盤を取り出して、俺に
誘いの目を向けた。俺は首を振 り、古泉は肩をすくめて一人ダイヤモンドを開始した。
 朝比奈さんのお茶が待ち遠しいね。
 こんこん。
 またノックの音がする。その時、俺は団長机の前に座らされてFTPソフトと格闘して
いた。背後にはハルヒがいて、 見当違いかつ思いつきのような注文をあれこれ発してお
り、その無理難題に俺が答えさせられているというわけである。
 だからそのノックは俺には救いの鐘の音だった。
「どーぞっ!」
 ハルヒがまた大声で言い、扉が開かれる。順番からみて来たのは朝比奈さんだろう。
「あ、遅れちゃってごめんなさい」
 控えめ謝辞を告げながら現れたのは、無翼の天使、朝比奈さんに違いなかった。
「四限までテストがあって……」
 言わなくてもいい言いわけを言いながら、ためらうようにドア付近で佇んでいる。なぜ
かそのまま入ってこようとせ ず、ためらうように、
「ええと、その……ですね」
 俺たちの視線が朝比奈さんに集中した。長門までが自分を見ていることに気付いた朝比
奈さんは、たじろいだように後 ずさり、それから思い切ったようにこう言った。
「あ、あの……お客さんを連れてきました」

 そのお客さんは喜緑江美里さんと言う、おとなしく清楚な感じの二年生だった。
 彼女は今、朝比奈さんの淹れたお茶の表面に視線を固定し、顔を上げずに座っている。
その横に朝比奈さんが付き添い のように並んで椅子に腰掛けていた。さすがにメイド衣
装には着替えてはいない。少し残念。
「するとあなたは」と、ハルヒが面接官みたいな顔をしてボールペンをくるくる回してい
く。二人の二年生の正面を陣取 り、横柄な口調で、
「我がSOS団に、行方不明中の彼氏を捜して欲しいと言うのね?」
 ハルヒは唇の上にペンを挟んで腕組みをした。まるで何かを考えているような仕草だが、
俺には解っていた。こいつは 今にも笑い出しそうになるのを堪えていやがるのだ。
 何と言うことか、来るわけないと楽観していたのに、悩み相談者第一号が来てしまった
のである。ハルヒ的には小躍り したいような状況だろう。
「はい」と、喜緑さんは湯飲みに向かって話しかけている。
 その様子を俺と長門と古泉は、端のほうで見守っていた。二人の二年
生を前にしたハルヒは、
「ふうむ」
 わざとらしく唸って俺に目配せをした。
 俺はつくづく自分が恨めしくなる。あんなポスターを作るんじゃなかったよ。なんて書
いたっけ、人に言えない悩み相 談受付けます……だったかな。でもな、まさか本気にす
る生徒がいるとはなあ、普通思わないだろ?
 にもかかわらず本気なのかどうなのか、喜緑さんはポスターを見てSOS団の活動目的
を、よろず悩み相談所か便利屋 稼業と誤認してしまったようだ。確かに文字通りに解釈
すればそうなるかな。ああ思い出した、俺のでっち上げ活動内容は「学園生活での生徒の
悩み相談、コン サルティング業務、地域奉仕活動への積極参加」だった。今のところど
れ一つとしてSOS団には無縁のものだ。草野球大会を掻き回した以外、なーんもしてね
えもんな。
 しかし、たまたまそんなことが書いてあるポスターを目にしていたせいで喜緑さんは
我々の存在に思い至ったようで、 悩んだあげく同学年である朝比奈さんに声を掛け、と
もどもにここを訪れたと、そういうことになるらしい。
 で、その悩み事なんだが。
「彼がもう何日も学校に来ないんです」
 喜緑さんは誰とも目を合わせることなく、湯飲みの縁を見つめてそう言った。
「めったに休まない人なのに、テストの日まで来ないなんておかしすぎます」
「電話してみた?」とハルヒ。口元が笑い出すのを止めるためか、ボールペンの尻を噛ん
でいる。
「はい。携帯にも家の電話にも出なくて。家まで行ってみたんですけど、鍵がかかったま
まで。誰も出てきてくれません でした」
「ふふふーん」
 他人の不幸を喜ぶ奴はロクデナシなのは事実だが、ハルヒは今にも歌い出しそうな上機
嫌オーラを発していた。つま り、こいつはロクでもない奴なのである。証明終わり。
「その彼氏の家族は?」
「彼は一人暮らしなんです」
 喜緑さんはお茶に喋りかける。人と目を合わせて話すことの出来ない性質があるようだ。
「ご両親は外国にいらっしゃると前に聞きました。私は連絡先を知りません」
「へー。外国ってカナダ?」とハルヒ。
「いいえ。確かホンジュラスだったと思います」
「ほほーう。ホンジュラスね。なるほど」
 何がなるほどだ。どこにある国か知っているのか疑わしいね。えーと……メキシコの下
くらいだっけ?
「部屋にいる気配もなくて。夜中に訪ねても真っ暗でしたし。わたし、心配なんです」
 喜緑さんはわざとのように淡々と言って、両手で顔を覆った。ハルヒは唇をうねうねさ
せながら、
「むう。あなたの気持ちは解らないでもないわ」
 嘘吐け。恋する少女の気持ちがお前に解るわけがない。
「それにしてもよく我がSOS団のところに来たわね。まずその動機を教えてよ」
「ええ。彼がよく話題にしていたんです。それで覚えていました」
「へえ? その彼氏って誰?」
 ハルヒの問いに、喜緑さんはその男子生徒の名前を呟いた。どっかで聞いたような気も
するが、知り合いにいないよう な気もする。ハルヒも眉を寄せて、
「誰だっけ? それ」
 喜緑さんは微風のような声で、
「SOS団とは近所付き合いをしているように言っていましたけど」
「ご近所さん?」
 ハルヒは天井を見上げる。喜緑さんは、首を傾げる俺と朝比奈さん、それから古泉と長
門へと首を巡らせ、ただし視線 を合わせないようにして、また湯飲みを見つめた。そし
て、
「彼は、コンピュータ研の部長を務めていますから」
 と言った。

 まったく忘れていた。あの気の毒な部長氏か。朝比奈さんへのセクハラ写真を撮られ
(無理矢理に)、 それを盾としたハルヒに最新機種を譲渡させられ(強引に)、泣く泣
く配線までしていたコンピュータ研究部の憐れむべき上級生だ。いや、憐れむ必要はない
か。こんないい雰囲気の彼女がいるんだったら、たいていのことはチャラになるだろう。
そういや、あんときの使い捨てカメラはどこに仕舞っておいたかな。
「うん、わかった!」とハルヒは簡単に請け負った。「あたしたちが何とかするわ。喜緑
さんあなたツイてるわよ。依頼 人第一号として、特別にタダで事件を解決してあげるか
ら」
 金を取っていたら学内奉仕活動にならないな。しかし、これは本当に何かの事件なの
か? 例の部長が単にヒキコモリ になってるだけじゃないだろうか。喜緑さんみたいな
恋人がいて何の不 満があるのか知らんが、そんな奴は放っておいて自然治癒を待つのがい
いと思うぞ。
 もちろん俺はそんなことは言わず、喜緑さんは彼氏の住所をメモ用紙に残して、実体化
した幽霊のような歩調で部室か ら出て行った。
 廊下まで見送った朝比奈さんが戻ってくるのを持って、俺は口を開いた。
「おい、そんな簡単に引き受けちまっていいのか? 解決できなかったらどうするつもり
だよ」
 ハルヒは、だが機嫌良くボールペンを回している。
「できるわよ。きっとあの部長は二ヶ月遅れの五月病で引きこもっているんだわ。部屋に
乗り込んで二、三発ぶん殴って 引きずり出せばいいだけの話よ。すんごく簡単」
 本気でそう思っているようだ。まあ俺もそう思うけど。
 俺は新しいお茶を淹れ直している朝比奈さんに訊いた。
「喜緑さんとは親しいんですか?」
「ううん、一回も話したことなかったです。隣のクラスだから合同授業の時に顔を見るく
らい」
 俺たちに相談するくらいなら教師か警察に言えばいいのに。や、すでに言った後なのか
な。それで相手にされずに朝比 奈さんに声をかけたのか。そんなところだろうと思うね。
 のんきに茶を啜る俺たちに何の緊張感もなかった。ハルヒは無闇に高揚して、もっと
大々的
に依頼を募集し片端から解決することを考えているようだ。一学期が残り少ないことを嘆
きつつも、チラシ配布計画第二 弾を強行しかねない調子である。それはやめとけ。
 長門がパタリと本を閉じ、俺たちはハルヒ言うところの調査に赴くことになった。

 部長氏の一人住まいは、ワンルームマンションだった。立地から考えて大学生がメイン
住人だろう、可 もなく不可もなさそうな三階建ての建物で、新しいとも古いとも言えな
いちょうどよさげな色合い。見た目は非常に普通である。平凡。
 住所を書いたメモを手に、ハルヒは階段をたかたか上がっていく。俺と他三人も、黙っ
てセーラー夏服の背中を追いか けた。
「ここね」
 鉄扉の前でハルヒは表札の名前を確認している。喜緑さんの告げた彼氏の名前がプラ
ケースに差し込まれていた。
「何とか開けられないかしらね」
 ノブをガチャガチャして施錠を確認してから、ハルヒがインターホンを押した。順序が
逆だろう。
「裏からベランダに上がったらどう。ガラスを叩き割れば入れるじゃない?」
 冗談で言っていることを祈らせてもらう。この部屋は三階だし、俺たちは空き巣狙いの
少年犯罪グループではない。俺 はまだ前科は欲しくないぞ。
「そうね。管理人さんとこ行って鍵を借りましょう。友達が心配して来たって言えば貸し
てくれるわ」
 お前は友達のフリが得意だからな。しかしこの部長、一人暮らしなんかしときながら彼
女に合い鍵も渡していなかった のか。ナスビのヘタだけ取って実を捨てているようなも
んだろそれじゃ。
 カシャン。
 涼しい音がして振り向くと、長門が無言でノブを握っていた。
「…………」
 液体ヘリウムみたいな長門の目が俺を見つめている。ゆっくりと長門はドアを引き、部
屋への入り口が口を開いた。停 滞していた内部の空気が、なぜか冷気を伴って俺たちの
足元にわだかまる----ような気がした。
「あら」
 ハルヒは目を丸く、唇を半円にして、
「開いてたの? 気付かなかったなあ。ま、いいわ。さあ上がりましょ。きっとベッドの
下とかに隠れてるから、みんな で引っ張り出して捕獲するの。抵抗が激しければ最悪、
息の根を止めていいわ。依頼人には蜜蝋に漬けた首を届けましょう」
 パソコンをぶんどった自責の念など微塵も感じていないらしい。サロメじゃあるまいし、
首だけもらっても置き場に困 るだけだ。
 勇躍、部屋に押し入った俺たちは、そこに無人のワンルームを見ることになった。ゴキ
ブリ一匹いやしない。ハルヒは バスルームやベッドの下も覗いていたが、少なくとも人
間の姿はどこにもなかった。長門の部屋、それも客間一つ分のさらに四分の一程度の広さ
だが、あの殺風 景な何もなさと比べると生活レベル四倍増だ。本棚と衣装ケース、卓袱
台みたいな机とパソコンラックがきっちり整理整頓して置いてある。窓を開けてベランダ
を確認しても洗濯機しか隠れていない。
「おっかしいな」
 ベッドの上で跳ねながら、ハルヒは首を傾げている。
「部屋の隅で膝を抱えて丸くなっていると思ったのに、コンビニに行ってるの? キョン、
あんた他にヒキコモリが行き そうな所って知ってる?」
 コンピュータ研部長はヒキコモリ確定か。中南米あたりを旅行中なんじゃないか? そ
れか本気で行方をくらましてい るのか、だ。ここに来る前に部長のクラス担任教師に話
を訊いてくるべきだったな。
 俺が本棚に並ぶパソコン関連の書籍を眺めていると、不意にシャツの背中を引く者がい
た。
「…………」
 長門が無表情に俺を見上げていて、ついっと顎を横に振った。何の意思表示だ?
「出たほうがいい」
 小さく、長門は俺に囁いた。今日初めて聞く長門の声だった。ハルヒと朝比奈さんは気
付いていないが、古泉だけが俺 の耳元に顔を寄せた。
「僕も同感です」
 真面目な声を出すな、気色悪い。しかし古泉は取り繕った笑顔で、目だけを笑わせずに、
「この部屋には奇妙な違和感を感じます。これに近い感覚を僕は知っている。近いだけで
根本的に違うような気もするの ですが……」
 ハルヒは冷蔵庫を勝手に開けて、「ワラビ餅発見! これ、賞味期限昨日になってるわ。
もったいないから食べま しょ」などと言いながら袋を破っている。朝比奈さんはおろお
ろしながら、ハルヒに差し出されたコンビニ菓子を毒見させられていた。
 俺も自然と小声になった。
「何に近いって?」
「閉鎖空間です。この部屋はあそこと同じような香りがする。いえ、香りというのは比喩
表現です。肌触りといいます か、そういう五感を超えた感触です」
 お前は超能力者かと反射的にツッコミを入れそうになって自制した。こいつはマジな超
能力者だったな、そう言えば。
 長門が空気をほとんど震動させない声で呟いた。
「次元断層が存在。位相変換が実行されている」
 わかるかっての。
 そうも言いたかったんだけどな。もし長門が不意打ちのように悲しそうな顔でもしたら
俺はこの場で腰をぬかすかもし れないので言わないほうが吉だ。やれやれ。
 ともあれ、さっさと撤退したほうがよさそうだな。俺は古泉と長門に合図をしてから、
半透明な餅を貪りくっているハ ルヒへと顔を向けた。

 全員でマンションから出ると、ハルヒは空腹を理由に本日解散を宣告し、一人で帰って
いった。喜緑さ んから持ち込まれた事件は一時棚上げ、「そのうちなんとかなるで
しょ」という無責任な発言によって思考も停止、今日のところは宙に浮くこととなった。
 もう飽きたらしい。
 昼飯がまだなのはハルヒだけではないが、俺は帰宅するように見せかけて、いったん全
員と別れたのち、十分経過をイ ライラしながら待って再び部長氏のマンション前に舞い
戻る。
 三人の団員たちはすでに揃いぶみで俺を待っていた。物知り宇宙人と理屈っぽいエス
パー野郎は、なんかすでに解った ような顔をしていたが、朝比奈さんは、
「あの……どうしたんですか? 涼宮さんに見つからないように再集合って……」
 きょとんと俺を見上げてくる。長門と古泉を見る目が不安の色を強めていた。俺を一番
待っていてくれたのは朝比奈さ んだ、そう思うことにしよう。
「この二人はさっきの部屋が気になるみたいです」と俺は応えた。
「そうなんだろ?」
 微笑と無表情が同時にうなずく。
「もう一度行けば解ると思いますよ。ねえ、長門さん?」
 何も言わずに長門はフラリ歩き出した。俺たちもついていく。足音もなく階段を移動す
る長門は、音もなく部長宅のド アを開け、音もなく靴を脱いで部屋の中央に進んだ。
 決して広くないワンルームは、四人が立って並んだだけでもう満員だ。
「この部屋の内部に」
 長門が切り出した。
「局地的非浸食性融合異次元空間が制限条件モードで単独発生している」
 …………。
 しばらく待ってみたが、説明はそれだけだった。そんな適当に辞書引いて目に付いた単
語を並べただけのような語句で 言われても辞書を持っていない俺にはどうすることもで
きないんだが。
「感覚としてはあの閉鎖空間に近いものですね。あれは涼宮さんが発生源ですが、こちら
はどうも違う匂いがします」
 古泉が長門をフォローするようなことを言った。いいコンビだ。付き合うといい。長門
に読書以外の趣味も教えてや れ。
「その件に関しましては後で考えさせていただきます。それより今はする事がありそうで
すね。長門さん、部長さんの行 方不明はその異常空間のせいですか?」
「そう」
 長門は片手を挙げると、目の前の空間を撫でるような仕草をした。
 嫌な予感が背骨を上って俺の脳を刺激する。おそらく俺は「待て」と言うべきだったん
だろう。しかし俺がそのたった 二音を発声する前に、長門はテープの早回しニ十倍速み
たいな音で何かを囁いて、途端、目の前の光景が瞬きする間に変化を遂げていた。
「はひっ!?」
 飛びついてきたのは朝比奈さんで、俺の左腕を両手で抱きしめてくれた。しかし俺は
せっかくの感触を味わうヒマもな く、自分の居場所を必死で確認しようとしていた。
 ええと、俺がいたのは部長の手狭なワンルームマンションだ。決してこんな薄気味悪い
場所じゃない。黄土色の靄がた なびき、地平線が見えないくらいだだっ広い平坦な空間
ではないのだ。誰だ、俺をこんな所につれてきたのは。
「侵入コードを解析した。ここは通常空間と重複している。位相がズレているだけ」
 長門が解説している。まあ、こんなことができそうなのはこいつくらいか。そんな長門
とまともに会話できるのは古泉 くらいで、
「涼宮さんの閉鎖空間ではないようですが」
「似て非なるもの。ただし空間データの一部に涼宮ハルヒが発信源らしいジャンク情報が
混在している」
「どの程度です?」
「無視できるレベル。彼女はトリガーとなっただけ」
「なるほど。そういうことですか」
 俺と朝比奈さんは仲良く蚊帳の外である。全然困らない。むしろ有り難い。このまま俺
たちを元の世界に戻してくれた らもっと有り難がってやるのだが。
 朝比奈さんは俺にくっついて恐々と周囲を見回している。彼女にとってこの空間は予期
しないものだったらしい。俺も 同様に、八方に視線を飛ばして観察してみた。呼吸はで
きるが、この黄土色の霞みたいなものは吸い込んでも大丈夫なんだろうか。靴下越しにひ
んやりとした床 の温度が足裏に伝わる。床なのか地面なのか、黄土色の平面がどこまで
も続いていた。六畳くらいのあの部屋にこんな収納スペースが付帯しているとはね。異次
元空間化。まあ、そろそろそんな雰囲気のものが出現するとは思っていた。我ながら冷静
である。
「ここにコンピュータ研の部長がいるのか」
「そのようですね。この異空間が自室に発生してしまい、どのようにしてか閉じこめられ
てしまったのでしょう」
「どこにいるんだ? 姿が見えないが」
 古泉はただ微笑んで長門に顔を向けた。それが合図だったのか、長門はまた片手を挙げ
た。
「待て!」
 今度は間に合った。俺は生真面目にも固まってくれた長門に、
「何をするか教えておいてくれないか? せめて心の準備期間は欲しいぜ」
「何も」
 長門は喋るガラス細工のように回答し、斜め上七十五度くらいを指していた手の指を握
りしめ、改めて人差し指だけを 伸ばした。それから一言、
「お出まし」
 俺は長門の指先が指す先へと視線を向けた。
「うーん」
 思わず唸るね。
 黄土色の靄がゆっくりと渦を巻いている。靄を構成する粒子の一粒一粒が一箇所に集合
しようとしているような渦巻き だ。俺は人体に侵入してきた病原体みたいな気分になっ
てきた。どうもこの黄土色の渦は白血球的な役目を自らに課しているのではないかという
イメージがどこ かから湧いてくる。朝比奈さんの手が温かいのだけが俺の心の慰めだ。
「明確な敵意を感じますね」
 のんびり言う古泉の声には緊張したところがなく、故障中のアンドロイドのように突っ
立っている長門も手を伸ばした まま無反応。だからと言って俺は安心できない。こいつ
らは自分の身を守るすべがありそうだが、俺にはない。朝比奈さんにもないみたいで、俺
の後ろに隠れて いる。こういう時こそ未来的なアイテムでも出してもらいたいんですけ
ど。光線銃とか持ってないんですか?
「武器の携帯は厳禁です。あぶないです」
 震える声の朝比奈さん。それは解るね。『この』朝比奈さんに武器を持たせても、役に
立たないだけならまだしも電車 に忘れてきたりするかもしれない。大人になったら少し
は改善されるのかと思いきや、考えてみれば『あの』朝比奈さんもけっこう粗忽者だった
し、根っからの オッチョコチョイなのかもな。
 そんなことを考えていると、靄の形が徐々に固形物の様相を呈してきた。たぶんこれに
も何かの理屈があるんだろう。 知りたくもないが、しかしなぜか俺は黄土色の塊がどん
な形を取ろうとしているのかが解りかけてきた。
「……ひ」
 朝比奈さんだけが脅えていた。確かにあまり気持ちのいい外見ではないし、街中では滅
多に見かけない。俺だって田舎 のばーちゃん家の縁の下で見かけたのを最後にもう何年
もご無沙汰だ。
 カマドウマという虫をご存じであろうか。
 知らんというかたには、ぜひこの目の前の光景を見せてあげたい。細部に至るまでよく
解るぞ。
 なんせ、全長三メートルはありそうなカマドウマだからな。
「なんだ、こいつは?」と俺。
「カマドウマでしょう」と古泉。
「それは解ってる。俺は幼稚園時代に昆虫博士として有名だったんだ。実物を見たことは
ないがウマオイとクツワムシの 区別だってつくぞ。そんなことはいい、これは何だ?」
 長門がポツリと漏らした。
「この空間の創造主」
「こいつがか?」
「そう」
「まさか、こいつもハルヒの仕業か」
「原因は別。でも発端は彼女」
 どういうことかと訊きかけて、俺は長門が俺の言いつけを愚直に守っていることに気付
いた。
「……もう動いてもいいぞ」
「そう」
 するりと手を下ろし、長門は実体化しつつある巨大カマドウマを見つめた。焦げ茶色を
した便所コオロギが、俺たちか ら数メートル離れてた場所に降り立とうとしている。
「おや。不完全ながら僕の力もここでは有効化されるようですね」
 古泉が片手に持っているのは、ハンドボール大の赤い光球だった。
どっかで見て以来、二度と見たくないと思っている 紅玉だ。掌から出し
てきたらしい。
「威力は閉鎖空間の十分の一といったところですか。それに僕自身が変化することはでき
ないようですね」
 なぜか古泉は、見飽きた爽快スマイルを長門に向けて、
「これで充分だと判断されたのでしょうか?」
「…………」
 長門はノーリアクション。重ねて俺が尋ねた。
「それより長門よ。あの昆虫の正体は何だ。部長はどこにいる?」
「あれは情報生命体の亜種。男子生徒の脳組織を利用して存在確立を高めようとしてい
る」
 古泉が眉間に指を当てている。考えているようにも見えたし、なんかの思念集中の様に
も見えた。顔を上げた古泉は、
「ひょっとして、部長さんは巨大カマドウマの中ですか?」
「そのもの」
「このカマドウマは……そうか、部長氏がイメージする畏怖の対象なのですね? これを
倒せば異空間も崩壊する。違い ますか?」
「違わない」
「解りやすいメタファーで助かりますね。ならば、ことは簡単です」
 解りやすくもなければ簡単でもなさそうだが。俺と朝比奈さんにも解るように言え。
「その時間は今はないようですが?」
 語尾を上げるな、優しく微笑むな、その赤い球をどこかにやれ、それから俺の腰にしが
みついている朝比奈さんを何と かしてくれ。このままでは俺がナントカなりそうだ。
「ひょええ」
 朝比奈さんは震えるばかりか、俺の行動範囲をも奪っている。これでは俺が逃げられな
いじゃないか。
「その必要はないでしょう。すぐ済みますよ。そんな確信がなぜかするんです。<神人>を
狩るよりも 楽そ うだ」
 実体化を終えたカマドウマは、今にも飛び上がらんとせんばかりだ。何メートル飛ぶか
な。測ってみたい気も……やっ ぱりしない。
 俺はぶっきらぼうに言った。
「さっさとやれ」
「了解しました」
 古泉は紅玉を放り上げると、バレーボールのサーブのように叩きつけた。正確無比に飛
んだ赤いハンドボールは、化け カマドウマの真正面から激突し、紙風船が破裂したよう
な音を立てた。攻撃の仕方もマヌケだが、相手も相当マヌケだな。少しは反撃するかと覚
悟していたの に、カマドウマは逃げも跳びも怪音を轟かすこともなく、ただ静かにそこ
でじっとしていた。
「終わりですか?」
 古泉の質問に、長門が首肯。ほんとにさっさと終わってくれたもんだ。
 巨大カマドウマは元の霧状態へと拡散して、さらにどんどん薄くなっていく。四方で揺
らめく黄土色の靄も消えてい く。足裏の冷たい感触もだ。
 その代償のつもりか、見慣れた制服姿の男が登場した。仰向けに倒れ伏すコンピュータ
研の部長氏。
 パソコンラックの前で椅子からずり落ちたみたいな格好で目を閉じている。生きてはい
るようだな。脇に屈み込んだ古 泉が首筋に手を当てて、俺にうなずいて見せた。
 ワンルームマンションの一室である。どこにあの広大な空間があったのかと思うね。
 何はともあれ、よかったことだ。灰色だろうが黄土色だろうが、広いところに閉じこめ
られるのはもうけっこう。

「約二億八千万年前のことになる」
 そう言って説明し出した長門の宇宙的怪電波を、かみ砕いて煎じ詰めれば次のようにな
る。
 二だか三畳紀だかに地球に降下した『そいつ』にとって、当時の地上には依り代となる
ものがなかった。存在基盤を 失ったそいつは自己保存のために冬眠に就くことにした。
地球に自分が存在できるような情報集積体が生まれるまで。
「地球にはそれにとっての存在手段がなかった。それは活動を凍結し、眠りに就いた」
 やがて地上に人間たちが生まれ、人間たちはコンピュータネットワークを生み出した。
この稚拙な(と長門は言った) デジタル情報網は、不完全ながら苗床として利用するこ
とが可能だった。ただし充分ではなく、そいつは半覚醒状態に留まった。しかし目覚めを
促す出来事が起 こる。そいつにとっての目覚まし時計代わりになったのは、ネットに流
された一つの起爆剤。それは通常の数値では測ることの出来ない情報を持っていた。この
世界には存在しないデータである。異界の情報データ。そいつにとって、それこそが待ち
望んでいた依り代だったのだ……。
 長門は淡々と語り終えた。
 話しながら部長宅のパソコンをいじっていた長門が、SOS団オンラインサイトを表示
させ、破損したSOS団エンブ レムをモニタに映し出す。
「涼宮ハルヒの描いたインヴォケーションサインがきっかけ。扉となった」
「……このSOS団エンブレムは、さっきの、そのアレか、召還魔法円か何かになってた
のか」
「そう」と長門は首を縦に動かした。「このSOS団紋章は、地球の尺度に換算すると約
四百三十六テラバイトの情報を 持っている」
 そんなことはない。十キロバイトもなかったぞ。あの画像データは。しかし長門は平然
と、
「地球上のいかなる単位にも該当しない」
「すごい確率ですね。たまたま描いたシンボルマークがそっくりそのまま該当したのです
から。まさに涼宮さんです。天 文学的数字をものともしません」
 古泉は本気で感心しているらしい。だが、俺は本気で恐怖しかけていた。何を恐怖する
かって?
 ハルヒは大概の事を単なる思いつきでおこなっている。SOS団結成もそうだろうし、
メンバー集めだってそうだ。朝 比奈さんはマスコットキャラにうってつけだからで、古
泉は転校してきたからで、長門は最初から居た。でもって、朝比奈さんは未来人で古泉は
超能力者で長門 は宇宙人モドキだった。出来すぎている。実際、古泉は偶然ではないと
言い、ハルヒがそう望んだからだなんていうタワゴトをほざいている。俺だってもう少し
で信じるところだったがそうはいかん。なぜなら俺自身は単なる普通人だからだ。それだ
けで充分反証になるだろう。古泉の理屈では俺にだって秘められた電波 プロフィールが
ないとおかしいことになる。なるはずなのだが……。
 無意味だと思っていたハルヒの行動のすべてに裏があるとしたらどうだろう。それは本
人も知らない意味だ。たまたま 頭に思い描いた自作文字がどこかの宇宙人へのメッセー
ジになっているような。猫にキーボードを叩かせて意味の通る文章が生み出されるような。
そんなのの確 率はいかほどのものだ?
 確率統計の壁をやすやすと突破して無意識のうちに正解に辿り着く涼宮ハルヒという迷
惑女、こいつが俺をパシリか何 かと考えてSOS 団に参入させたのならまだマシだ。あ
あ、そうだとも。俺自身にバカくさい謎の裏設定があることになっている、と考えるより
も全然いい。そ れで、あるのか? 俺になんか知らん素っ頓狂な変な能力かあるいは素
性が。
 だから俺を選んだのか? 俺の知らない俺の秘密なんてのが、実はあったりするんじゃ
ないだろうな。
 俺が恐れるのは次の一点だ。

 俺は何者なんだ。
 俺は古泉を真似て肩をすくめてみた。やれやれ、ってやつだ。自分の役割は自分が一番
よく解っている。早い話、俺は SOS団唯一の良心なのだ。そうに違いない。他の団員
三人とは本質からして異なるのさ。ハルヒを説得してまっとうな高校生活を送らせるため
に俺はSOS団 にいるのだ。あいつに非合法な部活をやめさせ、自主解団させることが
俺の任務なのだ。よくよく考えれば、それが平和な世界へと辿り着くための早道だ。い
や、一本道なのだ。
 世界をハルヒの思うとおりに変えるより、ハルヒの内面世界を変えるほうがまだ簡単で
誰も困ることがないだろう。
 もっとも、俺があいつに妙なインスピレーションを与えなければSOS団もなかったの
かもしれんけどさ。そこはほ ら、ええと、ケースバイケースだよ。なんとかやってみせ
るって。いつの日のことになるかとか、なんで俺がそんなことをせにゃならんのかとか、
俺にも解らな いけどな。
 それはいったん横に置いておく。
「それで結局あのカマドウマは何だったんだ」
 とりあえず尋ねておかないと話が終わりそうにない。長門はいかにも二酸化炭素を吐く
ついでだというような口調で、
「情報生命体」
「お前のパトロンの親戚か?」
「遠い昔に枝分れした。起源は同一だか異なる進化を遂げ、滅亡した」
 と思ったら、ここに生き残りがいたわけだ。よりによって地球で冬眠することはないだ
ろう。海王星あたりで寝ていた らいいのに。凍ったように眠れただろうに。
 インターネットの発達が邪神モドキの温床になるとはね。ふと思いついた。俺は床にへ
たり込んでいる小柄な上級生 に、
「朝比奈さん、未来のコンピュータはどの程度まで進化しているんですか?」
「え……」
 朝比奈さんは唇を開きかけて止まる。どうせ禁則とやらだろうから期待していなかった
が、応えたのは別人だった。
「このような原始情報網は使用されていないはず」
 長門が空気を読まずに言った。パソコンを指差し、
「地球人類程度の有機生命体でも、記憶媒体に頼らないシステムを生み出すことは容易」
 長門は視線を横にずらした。そこには朝比奈さんがいて、青ざめていた。
 そうなんですか?
「それは……その……」
 口ごもり、朝比奈さんはうつむいた。
「言えません……」
 呻くような声で、
「否定も肯定することも、あたしには権限が与えられていません。ごめんなさい」
 いやそんな。謝ることでもないっすよ、マジで。別にどうしても知りたいと思いません
し----こら古泉、何でお前 が残念そうな顔をしていやがるんだ。
 俺は朝比奈さんを救うべく、話題を変えることにした。えーと、何があったっけな、そ
うだ。
「おかしなことがある」
 自分に全員の注目が集まるのを待って、
「俺はハルヒがアホ絵を映しているときに居合わせたが、何も起こらなかったぞ。だいた
いハルヒが絵を完成させたとき になんでそいつは出てこなかったんだ?」
 答えたのは古泉だった。
「あの部室ならとっくに異空間化していますからね。何種類もの様々な要素や力場がせめ
ぎ合い打ち消しあって、かえっ て普通になってしまっているくらいです。飽和状態と
言ってもいいでしょうね。すでに限界まで色んなものが溶けて容量を満たしているわけで
すから、それ以上 溶け込む余地はないというわけです」
 なんて理屈だ。というか文芸部室はそんな恐ろしげな魔窟になっているのか。まったく
気付かなかったぞ。
「常人には余計なセンサーが付いていませんから。そうですね、そのままでも無害だと思
いますよ。多分ね」
 やれやれだ。夏でも体感気温が涼しくなるくらいならいいのだが、知らないうちに気が
ヘンになってるとか首吊り用 ロープを探しているとか、俺は嫌だぜ。
「心配しなくとも大丈夫ですよ。そうならないように、僕や長門さんや朝比奈さんも心を
砕いてがんばっていますから」
 三人ががんばっているから、そんなことになってるんじゃないだろうな。
 古泉は微笑み、「さて?」とでも言うように首を傾げて両掌を上向けた。
 俺はパソコンの画面へ目を戻す。壊れたSOS団のシンボルマークを見ているうちに、
なぜか気になった。マウスを操 作してカーソル移動、画面の下へ、
「げっ」
 アクセスカウンタが映っている。なぜかそれだけは正常化して、ビジター数を叩き出し
ている。俺が最後に見たそこの 数字は三桁なかった。今、我がSOS団サイトのカウン
タは、一十百千……なんと三千近く回っていた。なんだこれは。どこかに晒されているの
か?
「ハイパーリンクがあちこちに張られている」
 長門が静かに言う。
「この情報生命体はそうやって増殖する。とても稚拙。サインを見た人間の脳へ自情報を
複写し、限定空間を発生させる 仕組み。なるべく大勢の人間が必要」
「では、これを見た人間……三千人近くが、部長と同じことになってるのか」
「そうでもない。この召還紋章はデータが破損している。正しい情報元を参照した人数は
それほど多くない」
 たぶんサーバ異常だと思うが、それで助かったな。
「何人くらいだ? 怪しいリンクをクリックして、まともに模様を見ちまったアホは」
「八人。そのうち五人は北高の学生」
 ならばその八人も、黄土色時空に引き込まれているんだな。カマドウマとは限らない、
何かのメタファーとやらが支配 する空間にさ。助け----まあ、行く必要があるだろう。古
泉が長門にそいつらの住所を訊いているし(なぜそんなことを長門が知っているのか俺は
もう驚い たりはしないぜ)、朝比奈さんも二人についていくつもりのようだ。なら、俺
も行かないとダメだろうな。一番悪いのはハルヒだが、この魔法円みたいなのを ネット
に垂れ流してしまったのはこの俺なんだし、その尻ぬぐいくらいはしてやったほうがいい。
 俺の寝覚めが気分のいいものになるためにも。
 北高の被害者たちはともかく、他の三人を救い出すには、どうやら新幹線に乗らないと
いけないみたいだけどな。

 さて。
 テスト休み明けのことだ。後は夏休みを待つばかりとなった部室での一幕。
 ハルヒは、部長氏が学校に来ていることを教えてやると、
「ふうん。あっそ」
 といっただけで教室を飛び出し、今頃学食でたらふく喰ってることだ
ろう。古泉と朝比奈さんはまだ来てない。
 ちなみに例のハルヒ考案SOS団シンボルマークは、長門がリテイク
してくれたものを貼り付け直した。今度は上手く アップロードできたのは、さて、なん
でだろうね。これから見る奴はよーく目を凝らすといい。ハルヒのヘタクソ絵とほとんど
違わないが、注意深く比べると 「ZOZ団」と描いてあるのが解るはずだ。たったそれ
だけの違いで、変な物が出るか出ないかの瀬戸際なのだ。
 今回の警句は、見知らぬアドレスのリンクをほいほいクリックするなってことにしたい
と思うのだがどうだろう。
 そんなことを考えつつ、俺はテーブルの端で数字が羅列した専門書を読んでいる長門を
ぼんやりと眺めていた。
 こうして長門の顔を見ていると、ひょっとしてと思えてくることがある。
 ハルヒの召還画像にこいつがいつ気付いたのかは解らないが、データを破壊してくれた
のはこいつなのではないか?
 もう一つ、この事件を持ち込んでくれた喜緑江美里さんのこともある。ついさっき、コ
ンピュータ研の部室で尋ねたと ころ、ここの部長には彼女はいないはずなのだそうだ。
数日間の記憶喪失に悩んでいたものの、元気そうになっていた本人がそう言った。どうも
嘘を吐いている 様子 はなかったし、ズバリ喜 緑さんの名前を出してもポカンとするだけ
だった。こんなリアルな演技ができるほど部長氏は芸達者ではないよな。
 俺は疑う。
 喜緑さんがSOS団に来たのは、果たして本当に依頼のためだったのだろうか。考えて
みれば、あまりにもタイミング が良すぎた。ハルヒがイタズラ描きをして、俺がサイト
に貼り付ける。それを見た何人かが情報生命体とやらに異次元に連れて行かれる。訪れた
喜緑さんに話を 訊き、俺たちが部長宅へ向かう。そして、何とか退治する。
 絵に描いたようなシナリオだ。その中心にいたのはいつも長門だ。この万能宇宙人端末
が喜緑さんをどうにかすること で俺たちに事件をもたらしたのだとしても、クドいよう
だが俺たちはちっとも驚かない。
 依頼人ごっこを演じることで、ハルヒの退屈をほんの少しでも解消させてやろうと考え
たのかもしれない。この程度の 事件なら、俺たちを巻き込まなくても長門一人で終わら
せることができたはずだ。いつもはそうなのか? 誰にも言うことなく陰でひっそりと、
何かおかしなモ ノを未然に防いだりしているんじゃないだろうな。
 窓から吹き込む風が長門の髪と本のページを巻き上げた。白い指がそっと本の端を押さ
え、白い顔は伏せられたまま目 だけが文字を追っている。
 それとも。俺たちを巻き込んだのは長門の希望だったのだろうか。殺風景な部屋で何年
も暮らす宇宙人製の有機アンド ロイド。無感情に見えるだけで、やはりこいつにもある
のだろうか。
 一人でいるのは寂しい、と思うことが。

孤島症候群

 肩の痛みも忘れるほど唖然とした。
 現在の俺は腹這いの姿勢から身体を起こすこともできず、自分の目に映った光景にただ
驚愕しているところだ。俺が動 けないのは背中に余計な錘が乗っていて、そいつが退か
ないからである。しかしそんなことは気にならないくらいだ。扉をぶち破った勢いのまま
俺に覆い被さっ ている古泉も、やはりこの部屋の光景を目にして俺同様の驚きに打たれ
ているのだろうな、さっさと降りろ----とも、俺は考えることができなかった。それ ほど
俺は愕然としていたのだ。
 まさかである。まさか本当に起きてしまうとは、これはもうシャレだと言って笑ってす
ませられないぞ、どうすんだ。
 窓の外が光った。数秒後、雷の鳴る重低音が俺の腹に届く。本格的な嵐が、昨日から引
き続き島全域を覆っている。
「……そんな」
 呟きが聞こえた。俺や古泉と一緒にこの部屋のドアに体当たりを敢行し、開いた拍子に
もつれ合って転がり伏せった新 川さんの声だった。
 ようやく古泉が俺の上から退いて、俺は横に転がるようにして半身を起こす。
 そして、今もってなお信じがたい光景を改めて凝視した。
 扉近くの絨毯の上だ。そこに人間が一人、さっきまでの俺みたいに転がっている。朝に
なってもダイニングルームに降 りてこなかった館の住人、かつ主人でもある壮年男性。
昨夜、リビングで俺たちと別れて、階上に向かったときと同じ格好をしているからすぐ解
る。この真夏の 島で、かっちりした背広なんぞを必然性もなく着込んでいたのは彼一人
だ。先ほど呟き漏らした新川さんの雇い主、この島と館の所有者である……。
 多丸圭一氏だった。
 圭一氏は、驚愕の表情を顔に張り付かせて倒れている。ぴくりとも動かない。動かない
はずだな、どうやら彼は死んで しまっているようだから。
 なぜ俺にそんなことが解るのか? 見れば解るだろう。胸の上に突き立っている物が何
か、見覚えがある。晩飯に出て きたフルーツ籠に大量の果物と一緒になって混じってい
た果物ナイフの柄だ。
 賭けたっていい。その柄の下には、金属製の刃が続いているに違いない。でなければ、
目と口を開きっぱなしのまま動 かない人間の胸にそんなもんが直立するわけはないから
な。つまりナイフが圭一氏の胸に突き刺さっているというわけだ。
 たいていの人間は心臓を刃物で抉られたら死ぬだろうと俺は思っている。
 今の圭一氏の状態がまさにそれだった。
「ひえっ……」
 脅えきった小さな悲鳴が、破壊されたドアの向こうから聞こえた。振り返って見る。朝
比奈さんが両手で口元を押さえ ていた。よろめくように後ずさるその肩を、背後にいた
長門が押さえてやっている。いつでもどこでもどんな時でも無表情な長門は、ちらりと俺
に視線を向け て、考え込むように顎を引いた。
 もちろん、俺たちのいるところにはこいつもいるに決まっている。
「キョン、ひょっとしてさ……この人」
 ハルヒも驚いているようだった。朝比奈さんの横から部屋の中に頭を突っ込んでいたハ
ルヒは、どうやら永眠中の圭一 氏を暗闇の中の猫みたいな瞳で見つめていた。
「死んでるの……?」
 珍しく小声で、さらに珍しく緊張したような声である。俺は何か言おうとして振り返っ
た。古泉がいつもの微笑みをど こかにやってしまった難しい顔で立ちつくしている。廊
下にはメイドの森さんの顔もあった。
 唯一、昨夜まで館にいたのにこの場にいない人がいる。
 圭一氏の弟、多丸裕さんがいなかった。
 こじ開けた部屋の内部に物言わぬ館の主人が一人、失踪者が一人。これは何を意味する
のだろうか。
「ねえ、キョン……」
 ハルヒがまた言った。今にも俺にすがりつくんじゃないかと錯覚したほど、見慣れない
不安な表情で。
 また、稲妻が光って部屋を照らし出した。昨日から嵐は佳境に入っている。雷の音とと
もに、荒れた波が島肌を削る効 果音までついてきた。
 ここは孤島だ。それから嵐。おまけに密室で、そこにはナイフで刺された館主人が転
がっているというこの情景。
 俺は思わずにいられない。
 なあ、おいハルヒ。
 この状況を作り上げたのは、お前なのか?
 俺はSOS団団員が総出でこんな場所に立ち会うハメになった、そもそもの原因へとフ
ラッシュバックした。
 まだ夏休みになっていなかった。あの日のことを………。
 ………
 ……
 …

 それは夏真っ盛りの七月中旬頃であった。太陽に有給休暇をやりたいくらいの酷暑が今
日も続いてい る。
 俺はいつものようにアジト代わりの文芸部室で、朝比奈印の熱いお茶を飲んでいた。
返ってきた期末テストの結果から なんとか立ち直ろうとしていたのだが、来るべき補習
のことを考えるとどうしたって気楽に構えることはできない。こういうときは現実逃避を
するに限る。
 俺はすべての現実が嘘っぱちに過ぎないという理屈を瞬時にいくつか考えて、さてどれ
を選ぼうかと迷っている最中 だった。
「あの、どうかしました?」
 追試の前日に月の裏側から極悪なエイリアンが集団で降下して国会議事堂を叩き潰すと
いう嘘ストーリーへの耽溺を中 止し、俺は我に返った。
「難しい顔をしてますけど……。お茶、美味しくなかった?」
「とんでもない」
 俺は答えた。相変わらずの甘露でしたよ。茶葉は安物ですが。
「よかったぁ」
 夏服メイド姿の朝比奈さんは、くすりと小さな吐息を漏らした。その安心し切ったよう
な微笑みに俺もまた微笑み返し た。あなたの喜びは俺の喜びでもあるのです。朝比奈さ
んの微笑みに勝る万能薬はたとえ徐副が蓬莱山に到達していたとしても入手できなかった
ことでしょう。 俺の心は今や摩周湖の透明度よりも澄み切り脳内に天の御使いたちが管
楽器を吹き鳴らす光景すら幻視するありさまなのですよ……。
 と、小鳥を前にした聖フランチェスコのような熱意を込めて説こうとしたのだがやめて
おいた。意味のない修飾語の連 続が面倒になったわけではなく、邪魔な野郎が無駄に軽
快な声で割り込んだからだ。
「やあどうも。期末テストはどうでしたか?」
 古泉がテーブルに広げたモノポリーのルーレットを回しながら訊かなくてもいいことを
訊いてきた。おかげで俺は再び 月の裏へとワープしかけ、衛星軌道でなんとか意識を静
止した。お前はそこで一人モノポリーでもおとなしくやっていればいいんだ。部屋の隅っ
こで静かに読書 している長門の爪から垢でも分けてもらえ。
 パイプ椅子の上に百科事典みたいなハードカバーを広げている長門は、夏服セーラーを
着たガラス製仮面みたいな顔の まま息もしないような雰囲気でページに視線を落として
いる。どっちかといえばデジタルっぽい存在のくせに、アナログな情報入力が好きなのは
何か理由でもあ るのだろうか。
「…………」
 それにしても全員ヒマだな。
 とっくに短縮授業になっていて学校の営業も午前で終わりだってのに、なんだってこん
な所に集まっているんだ? そ れは俺もだが、俺にはちゃんとした理由があるぜ。一日
一杯、朝比奈さんのお茶を飲まないと俺は死ぬ身体になってしまっているのだ。おかげで
土日は禁断症状 で苦しんでいる。
 というのは冗談だ。断るまでもないのだが、一応言っておかないと冗談の通用しない奴
がいることを俺は高校に入学し て学んでいるんでね。この数ヶ月で学んだことがそれだ
けという俺が言うんだから間違いない。冗談と本気の線引きはちゃんとしておいた方がい
い。でないとロ クでもない目にあう恐れがあるからな。
 今の俺みたいに。
 俺は通学鞄を開けると購買部から身請けしたハムパンを取り出して、お茶請けにするこ
とにした。
 夏休みまでのカウントダウンをするくらいしかないこの時期に、俺たちが部室で猫溜ま
りの猫のようにダマっているの には理由がある----わけがない。自信を持って言えるね。
理由もなく発足したようなSOS団だ、そんなもん最初からねえ。強いて言うならばその
理由のな さこそが理由だな。理由があっては困るのだよ。どうせ唐変木なことしかしな
いのなら、まだ無意味であったほうが頭も痛まないというものだ。考える必要もな いか
らさ。
「あたしもお弁当にしますね。今のうちに」
 いそいそと自分の分のお茶を用意した朝比奈さんは、実に可愛らしい弁当箱を出してき
てテーブルの俺の向かいに着席 した。
「僕ならお構いなく。学食で済ませてきましたから」
 尋ねてもいないのに古泉が爽やかに断りを入れ、長門は食い気より読書欲をもっぱらと
しているらしい。
 朝比奈さんはふりかけでスマイルマークを描いて白いご飯をつつきながら、
「涼宮さんは? 遅いですね」
 俺に訊かれても。どっかその辺でバッタでも捕ってるんじゃないですか。夏ですし。
 古泉が代わりに答えた。
「先ほど学食でお見かけしましたよ。感嘆すべき健啖でした。食べた分がすべて栄養に回
るのだとして何エルグになるの か想像もつきません」
 そんなもん計算する気にもならんね。何ならこのまま夕食まで食堂に篭もっていればい
い。
「そうもいかないでしょうね。今日は何か重大な発表があるみたいですよ」
 どうしてお前がそんなに朗らかでいられるのか俺には解らん。あいつの重大発表とやら
が有益であったためしはないか らな。お前の記憶容量は五インチFD以下なのか?
「だいたいなんでお前がそんなことを知ってるんだよ」
 古泉はバックレ顔で、
「さて、それはなぜでしょうね。お答えしてもいいのですが、涼宮さんは自分の口から言
いたいのではないでしょうか。 僕がフライングして彼女の興を殺ぐようなことになれば
大問題です。黙っておきますよ」
「俺だって聞きたくもなかったね」
「そうですか?」
「ああ、そのお前の口ぶりで、あのアホがまたアホなことを企画しているらしいと知れた
からな。俺の心の平和があと何 分の命だったかは解らんが、たった今平和じゃなくなっ
たのは確か、」
 だ、と続けようとした俺のセリフは、どかんと開いたドアの音にかき消された。
「よし、みんなそろってるわね!」
 ハルヒがスペクトル分光器みたいに目を輝かせて立っていた。
「今日は重要な会議の日だからね。あたしより遅れて来た奴は空き缶蹴りで永遠に鬼の役
の刑にしようと思っていたとこ ろよ。あなたたちにもそろそろ 団員魂が芽生えてきてる
みたいで、それはとてもいいことよ!」
 今日が会議の日などであることを俺が聞いていないのは言うまでもない。
「ずいぶんのんびりだったな」
 イヤミのつもりだったのだが、
「いい? 学食でたらふく食べるコツはね、営業終了間際に行くことよ。そしたらおば
ちゃんが余りそうな分もオマケし てくれるのね。でもタイミングが重要なの。待ってい
るうちに売り切れちゃってたら目も当てられないからね。今日はアタリの日だったわ」
「そうかい」
 食堂なんぞ滅多に利用しない俺からしたら、そんなどうでもいい情報を得意満面に聞か
されてもそれくらいしか言うこ とない。
 ハルヒは団長机の上にとすんと腰を降ろした。
「ま、そんなことはどうでもいいんだけどね」
「お前が言い出したことだろ」
 しかしハルヒは俺を無視して、行儀良く箸を使っている朝比奈さんを名指しで呼んだ。
「みくるちゃん、夏と言えば何?」
「えっ」
 口を隠してモゴモゴしていた朝比奈さんは、本人の手作りらしきオカズを飲み下した。
「夏ですか……。うーんと、盂蘭盆会……かなあ」
 いやに古風な答えに、ハルヒは目を瞬かせた。
「ウランボン? 何それ。クリムボンの間違いじゃないの。そうじゃなくて、夏と言えば
即座に連想する言葉があるで しょう」
 何だろう。
 ハルヒは当然だと言わんばかりの口調で、
「夏休みよ夏休み。決まってるじゃない」
 そのまんま過ぎる。
「じゃあ、夏休みと言えば?」
 第二問を出題し、ハルヒは腕時計を見ながら「カッチ、コッチ」と口効果音。
 つられた朝比奈さんも慌てて考えているようだ。
「えーと、あーと、う……海っ」
「そうそう、かなり近付いてきたわ。では海と言えば?」
 何なんだこれは。連想ゲームか?
 朝比奈さんは頭のカチューシャを斜めにしながら、
「うみ、うみ、えーと……あっ、お刺身?」
「全然違うわよ。夏からどんどん離れてるじゃないの。あたしが言いたいのは、夏休みに
は合宿に行かなければならな いってことよ!」
 俺は見れば見るほどムカの入る古泉の微笑を睨んだ。お前の言っていた重大発表っての
はこれのことか。
「合宿だと?」
 ハテナマーク付き呟きに、ハルヒは大きく首肯した。
「そ、合宿」
 部活持ちの奴なら合宿の一つもするだろうが、我々がそんなもんをして何になると言う
んだろう。まさかどっかの山奥 で見つかるはずのないUMAを俺たちに捕獲させようっ
てんじゃないだろうな。
 朝比奈さんと古泉と長門を順に見て、それぞれに驚きと微笑みと無を見出してから言っ
た。
「合宿ね……何のだ?」
「SOS団の」とハルヒ。
「だから何しに行くんだよ」
「合宿をするために」とハルヒ。
 はあ?
 合宿をするために合宿に行く。
 それは頭痛が痛いとか悲しい悲劇とか焼き魚を焼くとかいうのと同じではないだろうか。
「いいのよ。この場合、目的と手段は同一のものなわけ。それに頭痛ってのは痛いもので
しょ? 頭痛が甘いじゃおかし いもんね。だいたいあってるわ」
 日本語が乱れようと標準語が河内弁になろうと知ったとこではないが、それより問題は
合宿とやらだろう。
「どこに行こうと言うつもりだ」
「孤島に行くつもりよ。それも絶海のっ、ていう形容詞がつくくらいのとこ」
 さて、夏休みの課題図書に『十五少年漂流記』があるとは聞いていないが、いったい何
を読んだらそんなことを言い出 せるんだろう。
「候補地を色々と考えてみたんだけどね」
 ハルヒは喜色満面である。
「山か海かどっちにしようと悩んだのよ。最初は山のほうが行きやすいかなって考えたん
だけど、吹雪の山荘に閉じこめ られるのは冬しか無理だし」
 グリーンランドにでも行けばいい……ではなく、なんでまたそんなことする必要がある
のかが疑問だ。
「閉じこめられるためにわざわざ山荘に行くのか?」
「そうよ。そうじゃないと面白くないからね。でも雪山はいったん忘れなさい。冬の合宿
に取っておくから。この夏休み は海に、いいえ! 孤島に行くわよっ!」
 やけに孤島にこだわるな、とは思ったが、それはまあ反対する気はない。反対したとこ
ろで無駄であることもさること ながら、この季節柄、海はなかなか魅力的な場所である。
それで、その絶海の孤島とやらにはちゃんと海水浴場があるんだろうな。
「もちろん! そうだったわよね、古泉くん」
「ええ、あったと思いますよ。監視員も焼きトウモロコシの屋台もない自然の海水浴場で
すが」
 さっそうとうなずく古泉を俺は疑問形の視線で眺めた。なんでお前がそこで出てくるん
だ。
「それはですね」
 古泉が言いかけるのをハルヒが遮った。
「今回の合宿場所は古泉くんが提供してくれるからよ!」
 机の中に手を突っ込んだハルヒはごそごそまさぐったのち、無地の腕章を出してきた。
そこにマジックで「副団長」と 書き入れて、
「この功績によって古泉くん、喜んでちょうだい、あなたを二階級特進してSOS団副団
長に任命されることになった わ!」
「拝領します」
 うやうやしく腕章を受け取る古泉は、俺に横目を流し込んでウインクしやがった。言っ
ておくが羨ましくもなんともな いぞ。そんなもんノベルティとして作ったとしても誰も
欲しがりやしない。
「というわけ。三泊四日の豪華ツアーよ! 張り切って準備しときなさい!」
 ハルヒはそれだけで話は終わったと言いたげな顔で、俺たちの理解を誘ったと思い込ん
でいるようだった。もちろん違 うぞ。
「いやちょっと待てよ」
 俺は朝比奈さんと長門を代表するために一歩ほど前に出た。
「それはどこの島だ。招待だぁ? なんだそれは。古泉がどうして俺たちを招待なんぞす
るんだ?」
 謎の転校生としてハルヒに定義された古泉だって怪しい奴だが、その背後にいるらしい
『機関』というアホっぽい組織 はもっと怪しい。俺たちを連れて行った先がどこかの研
究所で、ハルヒや長門あたりを生体解剖しようという罠ではないだろうな。
「僕の遠い親戚に、けっこうな富豪である人がおられましてね」
 と、古泉は人畜無害な笑顔を見せた。
「無人島を買い取ってそこに別荘を建てるくらいの金を余している人です。実際に建てて
しまいましてね。その館が先日 落成式を迎えたんですが、誰もそんな遠いところまでわ
ざわざ行こうという知り合いはおらず、親類中から訪問者を募った結果として僕にお鉢が
回ってきたとい うわけです」
 そんな怪しい島なのか。俺は遠い昔に読んだ気のするロビンソン・クルーソーのジュブ
ナイルを思い出した。
「いえ、元はただの小さな無人島です。僕たちはこれから夏休みですし、どうせならSO
S団全員で出かけたほうが何か と楽しそうですしね。その別荘の持ち主も、喜んで迎え
てくれるそうですよ」
「そういうことよ!」とハルヒ。
 俺たちを困惑させるときによく浮かべる絶頂の笑いを浮かべている。
「孤島なのよ! しかも館よ! またとないシチュエーションじゃないの。あたしたちが
行かずに誰が行くって感じだ わ。SOS団合宿inサマーにふさわしい舞台よね!」
「なんで?」と俺。「お前の好きな不思議探しと孤島の館に何の関係があるんだ」
 しかしハルヒは一人で自分の世界に入り込んでいた。
「四方を海に囲まれた絶海の孤島! しかも館つき! 古泉くん、そのあなたの親戚の人
はとてもよく解ってるわ! う ん、話が合いそうな気がする」
 ハルヒと話が合うような人間は例外なく変態だから、きっとその館とやらの主人も変態
なんだろう。こいつと話が合っ たらの場合だけど。
 ハルヒの主張を聞いているのか長門は不明だが、朝比奈さんは昼食を中止して軽く驚い
ているようだ。
「だいじょうぶよ、みくるちゃん。お刺身なら新鮮なのが食べ放題だから。そうよね?」
「計らいましょう」と古泉。
「そういうわけだからね」
 ハルヒは再び団長机から無地の腕章を取り出した。どんだけ予備があるんだ。
「行くわよ孤島! きっとそこには面白いことがあたしたちを待ち受けているに決まって
るの。あたしの役割も、もう決 まっているんだからね!」
 そう言いながら腕章にマジックで書き込んでいる。その乱暴な文字は、俺の目には「名
探偵」という三字の漢字に見え た。

「何を企んでいるのか聞かせてもらおう」
「何も」
 しれっと否定する。
 重大発表を終えて満足したハルヒが退散し、朝比奈さんと長門も部室から出て帰宅の途
についている。残っているのは 俺と古泉だけだった。
 古泉は長めの前髪を指で弾き、
「本当ですよ。僕が言い出さなくても涼宮さんはどこかに出かけるつもりだったでしょう。
夏休みは短いようで長いです からね。あなたは海より山でツチノコを探すほうがよかっ
たですか?」
「何だ、ツチノコって----いや、いい。ツチノコの説明はするな。それくらいは解って
る」
「三日ほど前ですが、駅前の本屋でたまたま涼宮さんと出くわしましてね。熱心に日本地
図を眺めていましたよ。もう一 冊、未確認生物を特集したオカルト 雑誌も広げていまし
たっけ」
 UMA探索合宿旅行か、それはそれでぞっとしないな。ハルヒのことだ、本当に何かを
発見しそうで怖い。
「でしょう? 涼宮さんはどうやら何かを捕まえに行くつもりのようでした。僕が感じた
限りでは比婆山脈が第一候補の ようでしたね。だったらまだ海辺で日光浴をしているほ
うが、我々全員にとって最大公約数的幸福ではないかと考えたのです。そのアテもあった
ことですし」
 よくもそんな都合のいいアテがあったものだ。まあ確かに炎天下の山歩きよりは、浜辺
で水着の女子部員を鑑賞してい るほうが地獄とユートピアくらいの差はあるな。
「決め手となったのは個人所有の無人島だってことらしいです。クローズドサークルが、
とか言っていましたね」
 当然、俺は尋ねる。知らないことは素直に訊くのが一番だ。
「クローズドサークルって何だ?」
 古泉はまったくイヤミでない、これがイヤミなのだとしたら見るほうの目がどうにかし
ていると俺でさえ解るような笑 みを広げた。
「やや意訳気味かもしれませんが」
 微笑んだまま古泉は一拍置いて、
「閉鎖空間と言っていいでしょうね」
 俺の表情のどこが面白いのか解らないが、古泉はくっくっと笑い、
「それは冗談です。クローズドサークルというのはミステリ用語ですよ。外部との直接的
な接触を絶たれた状況のことで す」
 もっとまともな日本語を喋れ。
「古典的な推理劇において登場人物たちが置かれることになる舞台装置の一つですね。一
例を挙げますと、たとえば我々 が真冬にスキーに出かけたとします」
 そういやハルヒも雪山が何とか言っていたな。
「その雪山で宿泊するところまではいいのですが、そこで記録的な大雪が降ったとしま
しょう」
 んなとこ行くんだったらあらかじめ天気予報には注意しそうだが。
「さて困りました。吹雪と積雪に阻まれて下山することができません。また、誰かが新た
に山荘に来ることもできませ ん」
 なんとかしろ。
「なんともできないからクローズドなのです。そしてそのような状況下で事件が起きます。
最もポピュラーなものが殺人 事件ですね。ここで舞台が生きてくるというわけです。犯
人もその他の人物も建物から逃げ出すことはできません。また、外部からも新たな登場人
物が来ること もありません。特に警察がやってくるなどもってのほかです。科学捜査な
どで犯人が判明してもちっとも面白くありませんからね」
 毎度のことだが、こいつは何を言ってるんだろう。
「おっと失礼。つまりではですね。涼宮さんの今回のテーマは、そのようなミステリ的状
況の当事者となることなので す」
 それが島なのか。
「そう、孤島です。島に何らかの理由で閉じ込められ脱出不可能となった中での連続殺人
でも夢想しているのではないで しょうか。クローズドサークルとして、吹雪の山荘か嵐
の孤島かという、公権力の介入をキャンセルする舞台としては双璧を誇っていると言って
もいいでしょう ね」
「俺はお前が妙に楽しそうなのが気がかりだがな」
 ハルヒが熱暴走するのは夏に限ったことでもないだろうが、お前まで奴の傍若無人を後
押しすることはないだろう。別 に俺が副 団長の座をもらえなかったからむくれているん
じゃないぞ。
「実は僕もそのような舞台が好きなものですから」
 人の好みにイチャモンをつける気はないが、一つだけ言わせてくれ。俺は全然好きじゃ
ない。
 だが、古泉も俺の好みに頓着せず、論文を読むような口調で続けた。
「名探偵について考えてみましょう。普通に一般的な人生を送っている人々は、そのまま
普通にしていれば奇妙な殺人事 件に巻き込まれることは稀ですね」
「そりゃそうだ」
「しかしミステリ的創作物の名探偵たちは、なぜか次々に不可解な事件の数々に巻き込ま
れることになっています。何故 だと思いますか?」
「そうしないと話にならないからだろう」
「まさしくね。大正解です。そのような事件はフィクション、非現実的な物語の世界にし
かありません。ですがここでそ んなメタフィクショナルなことを言っていては身も蓋も
ありませんね。涼宮さんは、まさにフィクションの世界に身を投じようと考えているよう
ですから」
 そういえばSOS団はそのためにあいつが作ったんだな。
「そのような非現実的なミステリな事件に遭遇するには、それにふさわしい場所に出かけ
なければならない。なぜなら創 作上の名探偵たちは、そうやって事件に巻き込まれるか
らです。いわば事件の当事者となる必要があるわけですよ。放っておいても事件が向こう
からやってくる には、肉親か関係者に警察のお偉いさんがいるとか、主人公が警察官そ
のものとか、シリーズを経て数作目を待たなければなりません」
 なるほどな。長門がSF好きなのは解っていたが、お前はミステリ好きだったんだな。
そんでハルヒはどっちも好きな んだろう。
「素人が探偵役をしようとしたら、まず周囲に発生した事件に意図せずして巻き込まれ、
かつ明快に解決しなければなら ないのです」
「そんな都合よく事件が身近で起きるわけないだろ」
 古泉はうなずいた。
「ええ。現実は物語のようにはいきません。この学校内で興味深い密室殺人が発生する確
率は低い。ならば、発生しやす そうな場所に行けばいい、と涼宮さんは考えたに違いあ
りません」
 本末転倒という熟語が俺の脳裏で点滅した。
「それが合宿の舞台となる、今回の孤島です。なぜか知りませんが、そういう場所は殺人
事件の劇場としてうってつけだ と世間的に考えられているのです」
 どこの世間だ、それは。えらく狭い世間もあったものだ。
「言い換えれば名探偵の現れる所に、奇怪な事件は発生するのですよ。たまたま出くわす
のではなく、名探偵と呼ばれる 人間には事件を呼ぶ超自然的な能力があるのです。そう
としか思えませんね。事件があって探偵役が発生するのではなく、探偵役がそこにいるか
ら事件が生まれ るのですよ」
 俺は誤ってウミウシを踏んづけた時のような目を古泉に向けた。
「正気か?」
「僕はいつでもほどほどに正気のつもりです。名探偵やクローズドサークル云々は僕がそ
う考えているわけではなく、涼 宮さんの思考パターンをトレースしてみただけです。つ
まりですね、解りやすく言うと彼女は探偵役になってみたいんですよ。合宿の目的がそれ
なんです」
 どうやったらあいつが名探偵なんぞになれるんだ。事件を自作自演して犯人役と探偵役
を兼ねるんならできるだろう が。
「それでも僕はツチノコ狩りや猿人探しよりはいいと思いましたね。僕は涼宮さんには知
り合いが島に別荘を建てていて 招待客を募集しているとしか提言しませんでしたよ。も
ちろん殺人事件を期待しているわけでもありません。僕はね」
 古泉の爽やかな笑みは、いつ見ても腹立たしい。ひょいと肩をすくめる動作もな。
「涼宮さんにささやかな娯楽を提供しているだけです。そうでもしないと、彼女が退屈を
紛らわすためにどんなことを考 えるか解りませんから。だとしたら、あらかじめこちら
側で舞台を調えているほうが幾らか対処のしようもあるということです」
「こちら側ね」
 憮然とする俺に、古泉は取り繕うように返した。
「この件に『機関』は無関係ですよ。一応報告はしましたけど。僕は超能力者の一員であ
りますが、それ以前に一人の高 校生なのです。いいじゃないですか、合宿も。実に高校
生らしい世界です。親しい友人たちとの旅行は心躍るイベントでしょう?」
 ハルヒが単なる旅行に心を躍られているだけならいいんだがな。これが普通の温泉地と
か陸続きの海岸とかならいいの だが、なんせ孤島だぜ? ハルヒのことだ、台風の二つ
くらいを呼び寄せちまうかもしれない。
 ……まあ、いくらあいつでも殺人事件を起こすほど狂気に侵されてはいないだろう。で
なけりゃ北高はとっくに死体の 山になっているだろうからな。それよりも重要なことが
あるような気がして、俺は沈思黙考する。
 夏で海で三泊四日。そこには白い砂浜があり、太陽も好調に炎上してくれていることだ
ろう。ならば今の酷暑も少しは 勘弁してやろうじゃないか。がんばれ太陽。
 さて、今から朝比奈さんの水着姿を拝む準備をしておかないといけないな。

 気前のいいことに宿泊費用はタダなのだと言う。食費もロハでいいらしい。俺たちが払
うのは往復の フェリー代くらいであった。
 そして俺たちは、港のフェリー乗り場に集合して乗船時間をいまや遅しと待ちわびてい
るのだ。
 ハルヒはよほど急いで合宿に行きたかったようだった。一学期の終業式は昨日であり、
つまり今日は夏休み初日であ る。古泉とその親類はいつでもいいみたいだったが、休み
に入るなり早速遠出しようとは、いかにもせっかちなハルヒの性格をよく表していると言
える。ハルヒ の顔を見ずにすむ日々をゆっくり過ごせると思ったのだが、それすら許さ
ないのが涼宮ハルヒという存在そのものであり、その意義でもあった。
「フェリーに乗るなんて久しぶりだわ」
 サンバイザーを斜めに被り、ハルヒは波止場の際で鉛色の海面を眺めている。ベタつく
潮風に 黒髪を遊ばせながら乗降 口の先頭に並んでいる。
「おっきい船ですね。これが水に浮かぶなんて不思議」
 両手でバッグを持つ朝比奈さんが、船体を見上げて感嘆するように言っている。白いサ
マードレスに麦わら帽子をか ぶっている姿がとことん愛らしい。ちゃんと顎の下で帽子
のヒモを結んでいるのも朝比奈さんらしいね。彼女の子供みたいな双眸は、中古のフェ
リーがまるで遺 跡から発掘された古代の葦舟であるかのような輝きを見せていた。彼女
の時代には船は水に浮いていないのかもな。
「…………」
 その後ろでは長門がぼんやりした顔で船の横腹に書いてある企業名を見つめている。珍
しいことに、長門は制服を着て いなかった。クロスチェックのノースリーブで黄緑色の
日傘を差して薄い影を落としている。病弱な少女が久しぶりに退院してきたばかりのよう
な雰囲気だっ た。どっかでインスタントカメラでも買ってきて撮っておきたい。谷口あ
たりに高く売れそうだ。
「晴天に恵まれてよかったですね。絶好の航海日和と言えるでしょう。船室は二等です
が」と、古泉は言う。
「相応だろ」
 パーティションもろくにない大部屋である。何時間もの長旅だったが個室なんか俺たち
には十年早いさ。たかだが高校 生の合宿旅行である。
 本質的に問題なのは、これが合宿でもなんでもないということだな。合宿のための合宿
なんざ、意味のある行動とは言 えまい。だいたい通常のクラブ合宿には引率の顧問教師
が必要なんではないだろうか。SOS団にそんなもんはいない。学校から認可されていな
い部活なのだか ら、いたらかえって驚くね。北高では顧問がいないと同好会すら認めら
れないことになっているわけで、これは俺の勘だがSOS団の顧問になろうとする教師が
いたとしてもハルヒが必要とするとも思えない。必要なんだったらとっくにどこからか拉
致して来ているだろうからな。俺たちがそうであったみたいに。
 俺が大あくびをする横に、朝比奈さんがとことこと近寄ってきた。丸い目をさらに丸く
している彼女は、
「あんな大きな船がどうやって浮いているんですか?」
 どうやってって、浮力以外の何で浮くんでしょう。朝比奈さんがいた時代には理科の授
業はなかったのだろうか。
「あっ、そうか。浮力。そ、そうですよね。なるほどー灯台もと暗しってやつですね」
 いったい何をそんなに納得したのか、朝比奈さんは今にもユーレカと叫んで風呂桶から
飛び出しそうな 顔でうんうんう なずいている。
 試しに質問してみよう。訊くだけなら害になるまい。
「あのー朝比奈さん、未来の船は何か画期的な方法で浮いているんですか?」
「うふ。あたしが言えると思う?」
 訊き返され、俺は首を振った。ぜんぜん思いません。突っつき先をちょっと変えて再度
の質門。
「海はあるんでしょうね」
 朝比奈さんは帽子の縁をちょいとつまんで傾けた。
「ええ。あります。海はあるわ」
「そりゃよかった」
 近未来か遠未来かも知れないが、地球がオール砂漠化していないようで何よりだ。そこ
の海の成分が今よりマシになっ ているといいんだけど。
 俺が未来人からさらなる有益な情報を聞き出そうと意気込んでいたというのに、
「キョン! みくるちゃん! 何してんの、時間よ!」
 ハルヒの叫びが乗船時間を知らせた。

 ところで集合時間に俺は遅れて来てしまっていた。朝、自宅から出ようとしたところ、
持ち上げたス ポーツバッグがやけに重い。不審を覚えて開けてみたら、着替えや洗面用
具の代わりに俺の妹が入っていたのである。昨夜うっかり口を滑らせたおかげで俺がハ
ルヒたちと旅行に出かけることに感づいた妹は「あたしも行く」と喚き散らしており、お
となしくさせるまで二時間くらいかかったのだが、ついに密入国を計画 したらしい。俺
はバッグから妹を叩き出すと、中身をどこに隠したのかを問いつめ、黙秘権を行使する妹
を宥めたりすかしたり絞めたりしているうちに時間を 喰ったのだった。お前には土産を
買ってやらん。そのための金は、他のSOS 団が喰っているフェリー内売店の弁当に化け
たからな。
 二等客室、フラットルームの一角を陣地としたSOS団の面々は、俺が買わされた幕の
内弁当を食べながら歓談をおこ なっていた。喋っているのはもっぱらハルヒと古泉だけ
だったが。
「あとどれくらいで着くの?」
「このフェリーで約六時間ほどの旅になります。到着した港で知り合いが待っていてくれ
る手筈になっていまして、そこ から専用クルーザーに乗り換えて三十分ほどの航海です
ね。そこに孤島とそびえ立つ館が待っているというわけです。僕も行ったことがないので、
どのような立 地なのかはよく知りませんが」
「きっと変な建物なんでしょうね。設計した人の名前は解る?」とハルヒはワクワクとい
う擬音を背景にして尋ねた。
「そこまでは聞いていませんね。それなりに有名な建築家に頼んだというようなことは
言っていたような」
「楽しみだわ。すっごく」
「期待に添えることができればいいのですが、僕も下見をしたわけではないのではっきり
とは解りかねます。しかし、無 人島に個人所有の別荘を建てようなどと考える人間の建
てた代物ですし、どこか特殊なのではないですかねえ。だといいですねえ」
 古泉はそう言うが、俺は別にそうであって欲しくない。もしハルヒの望み通りに図面を
引いたとする。それは多分、三 日くらい徹夜続きの上にアル中で朦朧としたガウディが
居眠りしながら設計したような建物になるだろう。俺はそんな奇怪な屋敷で宿泊したいと
は思わない。普 通の旅館がいい。朝飯に焼き海苔と生卵が出てくるような純和風のやつ
がさ。ナントカ館なんて名前が付いていたら、それこそハルヒは自分が殺人犯になってで
も事件を起こそうとするかもしれないだろ?
「島! 館! SOS団の夏季合宿にふさわしいったらないわね。これでこの夏休みの第
一歩は完璧な出だしだわ」
 浮かれているハルヒを中心にして、俺たち団員はただただ無言を押し通すしかなかった。

 波に揺られる以外することもないので、俺たちは古泉発案によるババ抜きをひとしきり
楽しんで、全敗 した古泉が買ってきた人数分の缶ジュースを受け取り、ひたすらに黙々
と飲んでいた。
 なんだか行く手に待ち受ける孤島だとか館だとかに、正体不明な不吉な響きを感じずに
はいられず、それは朝比奈さん とも共有すべき予感であるようだ。
 二口くらいで飲み干したハルヒは、
「みくるちゃん、顔色悪いわね。船酔い?」
「いえ……その……。あ、そうかも」
 答える朝比奈さんに、ハルヒは、
「それはよくないわね。外に出たほうがいいわ。デッキに上がって潮風を浴びてくればす
ぐ直るわよ。ほら、行きましょ う」
 そう言って朝比奈さんの手を取った。ニヤリと微笑みながら、
「心配しなくてもいいわよ。海に突き落としたりしないから。んん……それもいいかしら。
船上から忽然と消え失せる女 の乗船客」
「ひ」
 固まる朝比奈さんの肩をどやしつけ、
「嘘よ、うそうそ。そんなのちっとも面白くないもんね。せめて船ごと流氷に激突すると
か、巨大イカに襲われるとかし なきゃね。事件なんて言えないわ」
 後で救命ボートの位置を確認しに行こう。この真夏に流氷がこんな日本近海まで出張し
てくるとは思えないが、未知の 水棲怪獣がどこからか浮上するくらいはやりそうだ。出
てきたら退治してくれよ、というメッセージの篭もった俺の視線をどう受け取ったのか、
古泉は微笑み返 して長門は壁を見つめたままだった。
 ハルヒは一人でまくしたてている。
「やっぱ事件は孤島で起きるものよね! 古泉くん、このあたしの期待を裏切らないわよ
ね!?」
「どのような出来事を事件というのかは定かではありませんが」
 古泉は柔和に答えた。
「愉快な旅行になることを僕も願っていますよ」
 心にもないことを言っている奴特有の、あやふやな微笑を古泉は浮かべていた。いつも
の表情と言えばそうなのだが、 俺はスマイル仮面の真の顔を見極めようと超能力野郎を
じろじろ眺め、すぐにあきらめた。こいつの笑顔は長門の無表情と同じで、何の情報も持
たないのだ。 まったく、少しは喜怒哀楽をはっきりさせて欲しい。ただしハルヒほど
はっきりしなくてもいい。
 でたらめなハミングを歌いながら、ハルヒは朝比奈さんをせっついて船底から出て行っ
た。朝比奈さんが何度も振り返 りつつ、俺について来て欲しそうな顔をしていたが、俺
の錯覚かもしれないし調子に乗って後をつけるとハルヒが気分を害しそうな気もするので
やめておいた。
 いくらハルヒでも朝比奈さんが海に落っこちようとする前には助けるだろう。俺は天井
を見上げてそう願い、鞄を枕に して横たわった。朝も早かったことだし、少し眠らせて
もらうことにする。

 夢の中では何かファンタジーなことをしていたような気がするのだが、記憶に定着させ
る前に俺は叩き 起こされ、ハルヒからの命令電波を受信した。
「何寝てんのよバカ。さっさと起きなさいよ。あんたは真面目に合宿するつもりあんの?
行きの船の中でそんなこと じゃこれからどうするつもり?」
 寝ているうちに乗り継ぎの島に到着したようで、俺は何か取り返しのつかない損をして
しまったような気になった。
「初めの一歩が重要なのよ。あんたは物事を楽しもうっていう心意気に欠けているの。見
なさい、みんなを。合宿に向け る気持ちが瞳の輝きとなって溢れているじゃない」
 ハルヒが指差す先には、下船に向けて荷物を抱え始めている三名の下僕たちがいた。
 そのうちの一人、スマイル少年が、
「まあまあ涼宮さん。彼は合宿のための英気をやしなっておいでだったのですよ。おそら
く今日は徹夜で我々を楽しませ てくれるようなことを考えているのではないでしょう
か」
 古泉のしなくてもいいフォローを聞きながら、俺はどこに瞳の輝きがあるのかと自動人
形のような長門の顔を観察し、 朝比奈さんの小動物のような瞳を拝見し、
「もう着いたのか」と呟いた。
 何時間もの船旅。ここにいるのはSOS団のメンツたち。いや、他の連中はどうでもい
いが、朝比奈さんと優雅な船底 での何かをおこなうまたとない機会を、俺はみすみす欲
求に赴くままの睡眠によって消し去ってしまったわけだ。
 うお。いきなりケチがついた。俺の夏休みはこんなんでいいのか。本日現時点での思い
出はババ抜きくらいしかない ぞ。潮風に冷やかされつつ二人して語らう憩いの時間は?
 いぎたなく眠ってしまった数時間前の俺の胸ぐらつかんで蹴りを入れたい気分だよ。
 俺が半分寝ぼけながら自己批判を脳内で繰り広げていると、
 ぱしゃん。
 フラッシュの光に目が眩んだ。
 音がした方向に視線をやれば、そこには朝比奈さんがいてカメラを構えている。可憐に
微笑む童顔の天使は、
「ふふー。寝起きの顔撮っちゃいました」
 悪戯を成功させたおしゃまな幼稚園児のような顔で、
「寝顔も撮っておきました。よく寝てましたよ?」
 途端に俺は元気になった。朝比奈さんが俺を隠し撮りする理由とはなんだろう。ひょっ
としたらどうしても俺の写真が 欲しかったからではないか。可愛らしい写真立てに入っ
た俺の写真を枕元に置いて夜ごと「おやすみなさい」を言うためではなかろうか。それが
いい。そうしよ う。
 いやだなあ、言ってくれたら写真なんかいくらでも差し上げるのに。何なら自宅のどこ
かに仕舞われているアルバムご と進呈しても何ら差し支えない。
 しかし、俺がそう申し出ようとした時だ。朝比奈さんは持っていたインスタントカメラ
をハルヒに手渡した。
「キョン、何あんたニヤニヤしてんの? バカみたいだからよしたほうがいいわ」
 ハルヒは事故現場のスクープ写真をどこの新聞社に売りつけようか考えているような顔
をして、カメラを自分の荷物に しまい込んだ。
「みくるちゃんには今回、SOS団臨時カメラマンになってもらうことにしたの。遊びの
写真じゃないのよ。我がSOS 団の活動記録を後世に残すための貴重な資料とするわけ。
でもこの娘に好きなように撮らせたらしょうもないものばっかり撮りそうだから、あたし
が指示するっ てわけよ」
 それで、俺の寝顔と寝起き顔のどこに資料的価値があるってんだ?
「合宿の緊張感を持たずにマヌケ面で寝ているあんたの写真を晒すことによって後の世の
戒めとすんの! いい?  団長 が起きてんのに下っ端がぐうぐう寝てるなんて、モラル
と規律と団則に違反するんだからね!」
 ハルヒは怒ってるのか笑ってるのかどっちかにしろと言いたくなる表情で俺を睨みつけ
ていて、どうやら団則なんかい つ作ったんだという俺の疑問をぶつけても無駄のようで
あた。どうせ明文法ではないだろうし、ここは小川の水のように流されておこう。
「わかったよ。寝顔にイタズラ描きされたくなかったら、お前より早く寝るなってことだ
ろ? その代わり、俺がお前よ り遅く起きていたらお前の顔に髭くらい描いてもいいん
だろうな」
「なによそれ。あんたそんな子供みたいなことするつもりなの? 言っとくけど、あたし
は気配に鋭いほうだから眠って ても反撃するわよ。それから団長にそんなアホなことを
する団員は死刑だから」
 なあハルヒ、いまどき先進国じゃあ死刑制度を採用している国のほうが少ないみたいだ
ぞ。その点に関してはどう思 う?
「なんであたしがよその国の刑法なんかを論評しないといけないのよ。問題は外国で起
こってるんじゃないの。これから 行く不思議な島で起こるの!」
 起こす、の間違いでないことを祈りながら、俺は自分の鞄を引き寄せた。
 船がぐらりと揺れる。波止場に停まる準備段階に入ったようだ。他の乗船客たちもぞろ
ぞろと通路を出口付近に向かい つつある。
「不思議な島ね……」
 俺たちが向かうのはパノラマ島か何かか? せめて突然浮き上がったり泳ぎだしたりす
る島じゃなければいいのだが。
「だいじょうぶですよ」
 古泉が俺の心中を察したような顔でうなずいた。
「何の変哲もない、単なる離れ小島です。そこには怪獣も狂気におかされた博士もしませ
ん。僕が保証します」
 こいつの保証はいまいちアテにならない。俺は長門の白い顔に無言をして問いかけた。
「…………」
 長門も無言で返してくれた。いざとなれば怪獣退治くらいならこいつがしてくれるだろ
う。頼むぞ、宇宙人。
 船がもう一度大きく揺れ、
「きゃ」
 朝比奈さんがバランスを崩してよろけるのを、長門は静かに支えてやっていた。

 フェリーを降りた俺たちを、執事とメイドが待ち受けていた。

「やあ、新川さん。お久しぶりです」
 と言って、朗らかに片手を上げたのは古泉だった。
「森さんも。出迎えごくろうさまです。わざわざすみませんね」
 そして古泉はあっけに取られている俺たちを振り返り、舞台俳優が二階席の客まで届か
せんとするばかりの大袈裟な動 作で両手を広げて、いつもの微笑みを四倍に広げた。
「ご紹介します。これから我々がお邪魔することになる館でお世話になるだろうお二人が、
こちらの新川さんと森さんで す。職業はそれぞれ執事と家政婦さん、ああ、まあそれは
見れば解りますか」
 解ろうとも言うものだ。俺は改めて御辞儀したまま固まっている二つの異形の主を見た。
ここは、まじまじ、という擬 音とともに描かれる状況だろう。
「お待ちしておりました。執事の新川と申します」
 三つ揃いの黒スーツを着た白髪白眉白髭の老紳士が挨拶して再び一礼。
「森園生です。家政婦をやっております。よろしくお願いします」
 その横の女性もぴったり同じ角度で頭を下げ、何度も練習していたのかと疑いたくなる
ほどぴったり同じタイミングで 顔を上げた。
 新川氏は、歳をとっておられるのは解るが実年齢不詳の容貌で、森園生なるメイドさん
はこっちはこっちで年齢不詳な かたである。俺たちと同年代に見えるのは若作りのなせ
るわざか、単なるファニーフェイスなのか。
「執事とメイド?」
 ハルヒが虚をつかれたように呟いているが、俺も同じような心境だ。よもやそんな職業
がマジで日本に現存していたと は知らなかった。てっきりとっくに概念上の存在になっ
て化石化しているものだとばかり。
 なるほど、古泉の後ろで腰を低くしているお二人は、確実に執事とメイドに見えた。少
なくとも、そう紹介されて「あ あ……そうっすね。確かに」とうなずかされてしまう程
度にはハマっている。特にメイドさんのほう、森さんとかいったか。その女性はどこから
見てもメイド だった。なぜならメイドの衣装を着込んでいるからである。毎日のように
文芸部室でメイドな朝比奈さんを見ている俺が言うのだからここは信用しといてくれ。
しかも新川氏と森さんの衣装はハルヒの意味のないプレイの賜物ではなく、どうも純粋に
職業的な必要性からそのような恰好をしているらしい。
「ふぁ……」
 気の抜けた声を出したのは朝比奈さんで、彼女はビックリ眼で二人----どちらかと言え
ば森さん----を見つめ ていた。驚き半分、戸惑い三十%とといったところだ。残り二十%
は、さて何だろうね。どことなく羨望のような気がしたが、ハルヒの強制に従っているう
ちに 本物のメイドに対する憧れでも生じているのかもしれないな。
 その頃長門は、何一つ感想を言うこともなければ顔色一つ変えずに、旧石器時代の黒曜
石製鏃のような瞳を大時代的な 職業に就いているらしい出迎えの二人に注いでいた。
「それでは皆様」
 新川氏がオペラ歌手みたいな豊かなテノールで俺たちを誘った。
「こちらに船を用意してございます。我が主の待つ島までは半時ほどの船旅になりますで
しょう。なにぶん孤島でござい ますので、不便かと存じますがご容赦のほどを」
 また森さんともども御辞儀をする。俺は何かムズ痒い。こんな丁寧な対応をされるほど
俺たちは偉い人間ではないと教 えてあげたいくらいだ。それとも古泉はどっかの御曹司
の息子か何かなのか? こいつの特技は不定期エスパーだけだと思っていたが、まさか自
宅に 帰れば「坊 ちゃん」とか呼ばれているような家柄なのだろうか。
「全然かまわないわっ!」
 俺の頭の中を回りだしたクエスチョンマークの数々を一気に離散させるような声でハル
ヒが豪語している。見れば、ハ ルヒはトンマなスポンサーから莫大な資金を搾り取るこ
とに成功したインチキ映画プロデューサーのような笑顔になっていた。むむ。
「それでこそ孤島よね! 半時と言わず、何時間でも行っちゃっていいわ。絶海の孤島が
あたしの求める状況だもの。 キョン、みくるちゃん、あんたたちももっと喜びなさい。
孤島には館があって、怪しい執事とメイドさんまでいるのよ。そんな島は日本中探しても
あと二つくら いしかないに違いないわ!」
 二つもねえよ。
「わ、わあ。すごいですね……楽しみだなあ」
 棒読みで口ごもる朝比奈さんはいいとして、本人を目の前にして「怪しい」という形容
詞をつけるハルヒの口は無礼極 まる。しかし言われたほうもニコヤカに微笑んでいるの
で、もしや本当に怪しいのかもしれない。
 まあ、怪しいのはこのシチュエーション全体であるし、怪しさにかけてはこっちのSO
S団も人後に落ちないのでお前 が言うなの世界なのかもしれないが、何もそこまでハル
ヒを有頂天にさせるような筋書きにならなくてもよさそうなものだ。
 俺は新川執事と何事か談笑している古泉を眺め、両手を揃えて控えめに立つ森メイドさ
んを見つめ、それからなんとな く気になって彼方の海へと目をやった。波穏やかにして
無事快晴。今のところ台風は来ていないようである。
 果たして俺たちはもう一度本土の地を無事踏むことができるだろうか。
 長門のひんやりした無表情が、とても頼もしく見えた。情けないことに。

 新川氏と森さんが俺たちを案内したのは、フェリー発着場からほど近い桟橋の一つだっ
た。てっきりポ ンポン船あたりを想像していたのだが、俺たちが足を止めた所で波に揺
られているのは、地中海にでも浮いているのが絵になりそうな自家用クルーザーである。
値段を聞く気にならないくらいの豪華そうなシロモノで、乗ったからにはカジキマグロの
一本でも釣り上げないといけないような気分に襲われる。
 ぼやぼやしているのが悪かった。ひょいと飛び乗ったハルヒは放っておくとして、おっ
かなびっくりの朝比奈さんと、 淡々とぼーっとしている長門は古泉のエスコートで船に
乗り込み、その役は俺がやりたかったのにと呻いても失われた時間は戻ったりはしなかっ
た。
 キャビンに通された俺たちが、なぜ船の中にこんな洋式応接間があるのかと感じる前に、
クルーザーが緩やかに動き出 した。近年の執事は船舶免許も持っているようで、操縦し
ているのは新川さんだ。
 ちなみに森園生さんは俺の真向かいに座って、柔らかな微笑みで船内の調度品のように
なっていた。シックでクリティ カルなメイドスタイルである。ハルヒが部室で朝比奈さ
んに着せているのよりも若干過剰さが薄いような気もするが、あいにくメイド衣装業界に
詳しくないので よく解らない。
 落ち着かないのは俺だけでなく朝比奈さんものようで、さっきからメイドの衣装をチラ
チラ眺めつつそわそわしてい る。メイドさんのなんたるかを実地に見聞きして、部室で
のおこないの参考にしようとでもしているのだろうか。変なところで真面目な人だからな。
 長門は真正面を向いたままじっと固まっているし、古泉は悠然たる面持ちで余裕の笑顔
を保ったままで、
「いい船ですね。魚釣りもスケジュールに組み込んだほうがいいでしょうか?」とかいう
ことを誰に言っているのか提案 していた。
 それで、ハルヒは----。
「それで、その建物はなんて呼ばれているの?」
「と言いますと?」
「黒死館とか斜め屋敷とかリラ荘とか纐纈城とか、そんな感じの名前がついているんで
しょ?」
「いえ、特に」
「おかしな仕掛けがいっぱい隠されていたりとか、設計した人が非業の死を遂げたとか、
泊まると絶対死んでしまう部屋 があるとか、おどろおどろしい言い伝えがあるとか」
「ございません」
「じゃあ、館の主人が仮面かぶってるとか、頭の中がちょっと爽やかな三姉妹がいるとか、
そして誰もいなくなったり」
「しませんな」
 執事氏の声が付け加えた。
「今のところは、まだ」
「じゃあこれから起こる可能性はかなり高いわね」
「そうであるのかもしれません」
 適当に返事してないか、この執事さん。
 出発と同時にハルヒは操縦席へとよじ登り、上記のような会話を新川氏と繰り広げてい
るという案配である。エンジン と波切り音にまじって聞こえてくる話を小耳に挟んだと
ころ、どうもハルヒは過剰な期待を孤島の館に持っているようだ。それにしても、なんで
またたかだか離 れ小島にいちいち怪奇性を求める奴なんだ。あいつは。泳いで飯食って
ダラダラして仲間内の友愛をひとしきり深めたところで気持ちよく帰途につく、ってな感
じで充分だろうに。俺はそう思い、切実に願った。
 手遅れだったかもしれない。
 まさか執事とメイドが出てくるとは市民プールでヨシキリザメに噛まれる以上に思わな
かったから、仮面の主人や妙に 怪しい言動を取る他の客がいたりしても、とっくに驚け
ない境地に近付こうとしている。古泉め、次はどんなビックリ箱を披露するつもりなのか。
「わっ! 見えてきた! あれが館?」
「別荘でございます」
 一際デカいハルヒの嬌声が轟き、俺の心に雷鳴となって突き刺さるのであった。

 その別荘とやらは、見た目、実に普通であった。
 太陽はそろそろ斜めに傾いでいるものの夕方になるにはまだ時間がある。日中に日差し
を浴びて、どこか光り輝いてい るように思えた。なんせ別荘なんざ俺とは生涯無縁の存
在だと思っていたことだし。
 切り立つ崖の上に鎮座しているその建築物は、金持ちが避暑地あたりに建てそうないか
にもな造りで別段不審なところ もなく、ヨーロッパの古城を移築してきたわけでもなく、
蔦が絡まるレンガ色の洋館でもなく、変な塔がにょきにょき付属しているわけでもなく、
ましてや忍者 屋敷のようなギミックが隠されているわけでもなさそうである。
 案の定、ハルヒはトンカツだと思って食べたらタマネギフライであったような顔つきと
なって、その別荘(ハルヒ的に は館)を遠望していた。
「うーん。思ってたのとかなり違うわね。見かけも重要な要素だと思うんだけど、この屋
敷を設計した人はちゃんと資料 を参考にしたのかしら」
 俺はハルヒと並んでデッキにて島の風景を観賞した。ハルヒによってキャビンから引き
ずり出されたのである。
「どう思う? キョン、あれ。孤島なのに普通に建ってるわよ。もったいないと思わな
い?」
 思うさ。何もこんな所に別荘を持たなくてもいいだろう。コンビニに行くまで自家用船
に乗って往復一時間もかかるん じゃあ、夜中に腹減ったときどこに行けばいいんだ?
ジュースの自動販売機もなさそうだしさ。
「あたしが言ってるのは雰囲気の問題よ。もっとオドロオドロした館だと信じてたのに、
これじゃあまるっきりの閑静な 行楽地じゃないの。あたしたちはお金持ちの友達の別宅
に遊びに来たわけじゃないのよ」
 俺は風になびいて頬をちくちく刺しているハルヒの髪の毛を払いのけ、
「そういや合宿だったな。何の特訓をするんだよ。冒険家の真似事か? 無人島に漂流し
たときのシミュレーションでも するつもりか」
「あ、それいいわね。島の探検を日程に入れておくわ。ひょっとしたら新種の動物の第一
発見者になれるかもよ」
 いかん、ハルヒの目が輝きを増すようなことを言ってしまった。頼むからいらんもんが
出てくるなよ、島。
 俺が緑に覆われた小島に向けて念を送っていると、
「ここいらの島々は、大昔に海底火山爆発による隆起によってできたものらしいですね」
 言いながら古泉がのっそりと出てきた。
「新種の動物はさておき、古代人の残した土器のかけらくらいは出てくるかもしれません。
原日本人が航海の途上で立ち 寄った形跡があるやもです。ロマンを感じますね」
 古代のロマンと、真新しそうな別荘にはどうも連続性がないような気もするが、俺はツ
チノコ探しも穴掘りもごめんだ ぜ。二手に分かれようじゃないか。ハルヒと古泉は島で
冒険家、俺と朝比奈さんと長門とで海辺でたわむれる。ナイス・アイディーア。
「あれ、誰かいるわ」
 ハルヒが指差したのは、これも新造されたばかりと思しき小さな波止場だった。どうも
このクルーザー専用のハーバー らしく、他の船の姿はない。その防波堤みたいな場所の
先端に、一つの人影がこっちに向かって手を振っていた。男性のように見える。
 反射的に振り返しているハルヒが、
「古泉くん、あの人が館のご主人? ずいぶん若いけど」
 古泉も手を振りつつ、
「いえ、違います。僕たち以外の招待客ですよ。館の持ち主の弟さんでしょう。前に一度
だけ会ったとこがあります」
「古泉」と俺は口を挟んだ。「そういうことは先に言っておけよ。俺たち以外に呼ばれて
いる人がいるなんて初耳だぞ」
「僕も今知りましたから」
 しれっと古泉はかわして、
「でも心配することはありません。とても良いかたですよ。もちろん、館の持ち主の多丸
圭一さんも含めてね」
 その多丸圭一氏というのがこんな僻地に別荘を建て、夏の仮住まいとしている酔狂な人
物であるとは聞かされていた。 古泉の遠縁の親戚筋で、こいつの母親の従兄弟くらいに
相当するとかなんとかだった。何だかよく知らないが、バイオ関係の分野で一山当てて、
今は悠々自適の 生活なんだとか。きっとどう使っていいのか解らないくらいの金を持っ
ているに違いない。でなければこんなもん建てるとは思いがたいからな。
 専用のハーバーに向けてクルーザーが減速している。人影の表情がつかめるまでに近付
いてくる。若い感じの恰好をし ていた。二十歳過ぎくらいだろうか。これが多丸圭一氏
の弟であるらしい。
 執事が新川氏で、メイドが森園生さん。
 残すは、真打の館の主人、多丸圭一氏その人だけだ。
 登場人物はこれで打ち止めってことでいいか?

 思えば朝から何時間も船に揺られっぱなしだった。おかげで今も地面が揺れているよう
な気がする。
 クルーザーから大地に一時帰還を遂げた俺たちを、その青年が快活な笑みとともに出迎
えた。
「やあ、一樹くん。しばらくぶりだったね」
「裕さんも。わざわざご苦労様です」
 会釈する古泉は、続いて俺たちの紹介に入った。
「こちらの皆さんは僕が学校でとてもお世話になっているかたがたです」
 お前の世話なんかした覚えはないが、古泉は横一列となった俺たちを一人一人指差して
確認しながら、
「この可憐なかたが涼宮ハルヒさん。僕の得難い友人の一人です。いつも自由闊達として
いて、その行動力を僕も見習い たいくらいですよ」
 なんて紹介文だ。背筋に汗が浮いてくる。ハルヒも、おいお前。何猫被って如才なく殊
勝に御辞儀しているんだ。船酔 いで脳組織が欠落でもしたのか?
 しかしハルヒは目も眩みそうなよそ行きの笑みで、
「涼宮です。古泉くんはあたしの団……いえ、同好会に欠かせない人材です。島に誘って
くれたのも古泉くんだし、頼り になる副団……いえ、副会長なんです。えへん」
 俺の寒気を無視し、古泉は続いて他メンツの紹介を続行する。いわく、
「こちらが朝比奈みくるさん。見ての通りのかたでして、愛らしく美しい学園のアイドル
な先輩です。彼女の微笑みはも はや世界平和を実現するレベルですね」
 とか、
「長門有希さんです。学業にすぐれ、僕の知らないような知識の宝庫と言えるでしょう。
やや無口ですが。そこがまた彼 女の魅力であるとも言えます」
 という歯の浮きそうなプロフィールを並べ立て、もちろん俺もまた古泉の結婚相談所に
登録するような誇張文句の餌食 となったがここでは割愛させていただく。
 さすが古泉の親類と思いたくなる良くできた微笑で聞いていた裕さんとやらは、
「どうぞいらっしゃい。僕は多丸裕。兄貴の会社を手伝っているしがない雇われ者だ。キ
ミたちのことは一樹くんから何 度か聞かされたよ。急な転校で心配していたんだが、い
い友達ができたようで何よりだ」
「皆様」
 新川氏の朗々たる渋い声が背後で発せられた。
 振り向くと大きな荷物を抱えた執事氏と、森園生さんが船から降り立っていた。
「ここでは日差しがきつうございます。まずは別荘のほうに足を運ばれてはいかがでしょ
う」
 新川氏の言葉に、裕さんがうなずいた。
「そうだね。兄貴も待っているし、荷物を運び込もうか。僕も手伝おう」
「僕たちなら大丈夫です。裕さんは新川さんと森さんを手伝ってください。本島で買い込
んだ食材がたんまりあるそうで すよ」
 古泉の笑みに裕さんも笑みで返した。
「それは楽しみだね」
 そのような当たりも障りもしやしない一幕の後、俺たちは古泉の先導のもとに崖の上の
別荘へと向かった。
 思えばこの時から、何か変な気分がしていた。
 とまあ、これはアトヅケのイイワケだが。

 富士山八合目の登頂路みたいな階段を登り切った所に別荘はあった。ハルヒには悪いが
館とか屋敷と言 うよりはまさに別荘と言いたい佇まいである。
 三階建ての白っぽい建築物だが平べったい印象を受けるのは、とにかく無駄に横幅があ
るせいだろう。どんだけ部屋数 があるのか数えてみたい気もする。おそらくサッカー
チームが二つ同時に宿舎にできるくらいはありそうだ。生い茂る木々を切り開いて土地を
確保したようだ が、どうやってこんなところまで建築資材を運び込んだのだろう。
ちょっとした規模のヘリンボーン作戦が必要なんじゃないだろうか。金持ちのすることは
解ら ん。
「どうぞこちらへ」
 古泉が執事見習のように俺たちを玄関へと招く。ここで一同、整列。いよいよ館の主人
との対面が果たされようとして いるのだ。緊迫の一瞬である。
 ハルヒは折り合いのつかない差し馬みたいに前がかりになっていた。胸の内では形容し
がたい期待がトグロをまいて舌 をしゅるしゅる出しているのが解る。朝比奈さんは可愛
らしく髪の毛を撫でつけて第一印象を良くする配慮に余念がなく、長門は普段通り陶器製
の招き猫のよう に汗一つかかずぼんやりと立っていた。
 古泉は一度俺たちを振り返り、浅薄な笑みを浮かべつつドア付近のインターフォンを無
造作に押した。
 応答があり、古泉が挨拶の文句を述べている。
 待つこと数十秒、扉がゆっくりと開かれた。

 言うまでもなく、そこに立っていた人物は鉄仮面を被っているわけでもなければ目出し
帽にサングラス を掛けているわけでもなく、突然俺たちを襲 撃することもなければ面妖
な薀蓄をいきなり吐いて戸惑わせることもなく、ごく普通のオッサンに見えた。
「いらっしゃい」
 多丸圭一さんと言うらしい何成金か何長者かは知らないが、その普通のオッサンはゴル
フシャツにカーゴパンツという さばけた恰好で、俺たちを迎え入れるように片手を広げ
た。
「待ってたよ、一樹くん。と、その友人の皆さん。まったく正直なところ、ここは酷く退
屈な場所でね。三日目となれば すぐ飽きる。誘って来てくれたのは裕以外では、一樹く
んだけなんだよね。おおっ」
 圭一さんの視線は俺の顔を上滑りして朝比奈さん、ハルヒ、長門の順に固定され、
「これはこれは。なんとも可愛らしい友達もいたものだね。一樹くん。なるほど噂には聞
いていたが噂に違わぬ美人揃い だ。この殺風景な島も、さぞ華やかになるな。素晴らし
いよ」
 ハルヒはにっこりと、朝比奈さんはぺこりと、長門はじっと、おのおの三者三様の反応
をして、心底歓迎しているよう なジェスチャーを交えて笑う圭一さんを、世界史の時間
なのに教室に現れた音楽教師を見るような目でみていたが、やがてハルヒが一歩進み出て、
「今日はお招きいただき、まことにアリガトウございます。こんな立派なお屋敷に泊まれ
るなんて、物凄くありがたいと 思います。全員を代表し、ここにお礼申し上げます」
 まるで作文を読み上げているような口調、かつ普通より一オクターブ高い声で言った。
こいつはこの猫かぶりを合宿中 ずっと続けるつもりなのか? ボロが剥がれて牙を剥が
出しになる前に頭上の透明猫を捨てたほうがいいと思うのだが。
 多丸圭一さんもそう思ったのか、
「キミが涼宮さんかい? あれま、聞いていた噂とは随分違うね。一樹くんによるとキミ
ももっと……。ええ、何と言っ たかな? 一樹くん」
 話をいきなり振られても古泉は慌てず狼狽せず、
「フランクな人、でしょう。そう伝えた覚えがありますから」
「そういうことにしておこう。そう、そのフランクな少女だとばかり」
「あっそう?」
 ハルヒは見えない猫の仮面をあっさり剥いだ。部室以外の教室では滅多に見せないとび
きりの笑顔で、
「初めまして館のご主人! さっそくですけど、この館、何か事件が起こったことある?
それにこの島、現地の人たち からナントカ島とか呼ばれて恐れられている言い伝えとか
ない? あたしはそういうのが趣味なのよ」
 初対面の人間に奇矯な趣味を披露するな。と言うか、家の持ち主を捕まえて事件があっ
たほうがいいようなことを言う な。追い返されたりしたらどうするんだ。
 だが、多丸圭一氏はどうにも太っ腹なことにおかしそうに笑っただけで、
「キミの趣味には大いに同調するけど、事件はまだ起こったことがないよ。つい先日完成
したばかりの建物だからね。島 の来歴については私も知らないな。特に不吉とも聞いて
いないが。無人島だったしね」
 おおらかに人間味を見せつけて、「さあ」と奥へと手を差し伸べた。
「立ち話もなんだからどうぞ中へ。洋風だから土足のままでかまわないよ。まずは部屋へ
案内したほうがいいかな。本当 なら新川にガイドを申しつけるところだが、まだ荷物運
びの途中のようだ。やむを得まい。私が自分をもってその役を任じよう」
 そう言って、圭一氏は自ら俺たちを導いてくれた。

 さて、ここいらでこの別荘内の見取り図や部屋割り表を提供したいところだが俺に絵心
がないのは小学 校低学年時代に判明しているので遠慮しておく。簡単に説明すると、俺
たちが宿泊する部屋はすべて二階にあり、多丸圭一さんの寝室と裕さんが寝起きする客間
は三階である。それだけ等親が近いという表れかもしれない。執事の新川さんと家政婦森
さんは一階に小部屋を構えている……。
 ということになっていた。
「この家、名前か何かはついてるの?」
 ハルヒの問いに圭一さんは苦笑い。
「とりたてて考えてはいないな。いいのがあるんであれば募集するよ」
「そうね。惨劇館とか恐怖館ってのはどうかしら。それでもって部屋一つ一つにもコジャ
レた名前を付けるのがいいわ。 血吸いの間とか、呪縛の部屋とか」
「お、それはいいね。次までにネームプレートを用意しておこう」
 そんなうなされそうな名前の部屋で眠りたくないんだが。
 俺たち一行はロビーを通り抜け、高級木材製の階段を上がって二階に到達する。ホテル
かと思うような造りで扉がズラ ズラ並んでいた。
「部屋の大きさはさほど変わらないがシングルとツインがある。どの部屋でも好きに使っ
てくれたらいいよ」
 さてどうするか。俺は誰と相部屋になってもいいが、メンバーは五人なので二つに分け
ると一人余りが出てしまい、ど う考えても長門がひっそりと取り残されそうだった。か
と言って俺がルームメイトに名乗りを上げたところで、長門は気にしないだろうがハルヒ
の逆突きパンチ によって瞬殺されるのがオチだ。
「まあ、一人一部屋ということでいいではないですか」
 古泉が最終結論を出した。
「どうせ部屋にいるのは寝るときだけでしょう。部屋間の移動は各自の自由意思というこ
とで。ちなみに、鍵はかかりま すよね?」
「もちろんだ」
 多丸圭一さんは微笑ましくうなずいた。
「部屋のサイドボードに置いてある。オートロックじゃないから鍵を忘れて出ても閉め出
されることはないだろうけど、 なくさないようにしてくれたらありがたい」
 俺なら鍵なんか不要だ。就寝時にだって開け放しておくさ。皆が寝静まってから朝比奈
さんが何らかの理由で忍び込ん でくるかもしれないからな。それに盗られて困るような
もんは持ってきてないし、わざわざこんな犯人特定のしやすい状況で窃盗を試みる奴なん
かいないだろ う。いたとしたらそのコソ泥はハルヒで間違いない。
「では私は新川たちの様子を見てくるよ。今のうちに邸内を自在に散策してくれたらいい。
非常口の確認を怠らないよう にね。それでは」
 それだけ言って圭一さんは階下へ向かった。

 多丸圭一氏の印象を、ハルヒはこう語った。
「怪しくないのが逆に怪しいわ」
「じゃあ見るからに怪しかったらどうなんだよ?」
「見たままよ。怪しいに決まっているじゃないの」
 つまりこいつの主観では、この世に怪しくないものなどなくなるのである。ISOも
びっくりの判断基準だ。将来 JAROに勤めるといい。仕事しまくりの生活を送れるこ
とだろう。
 適当に部屋割りして荷物を置いた俺たちは、ハルヒが自室に選んだツインルームに集合
していた。一人でツインを独占 しようとするのは非常にハルヒ的な振る舞いで、つまり
こいつは遠慮とか奥ゆかしさとは無縁の性格をしているのだ。
 ベッドに腰掛ける女性陣三人組と化粧台に座る俺、古泉は泰然と、腕を組み壁にもたれ
て立っていた。
「解ったわ!」
 やおらハルヒが雄叫びを上げ、俺はいつものように脊髄反射のツッコミを入れた
「何がだ」
「犯人」
 そう断言するハルヒの顔は、なんか知らんがミステリアスな確信に満ちあふれている。
 しぶしぶ、俺は他の三人の意見を代表して言った。
「何の犯人だ。まだ何も始まってなどいないぞ。到着したばかりだろうが」
「あたしの勘では犯人はここの主人なのだわ。たぶん、一番最初に狙われるのはみくる
ちゃんね」
「ひいっ」
 朝比奈さんはマジでビビっているようだった。鷹の羽音を聞いた仔ウサギのように、ピ
クピクとして隣にいた長門のス カートをつまんでいる。長門は何もコメントせず、
「…………」
 音もなく視線を空中に据えているのみだ。
「だから何の犯人なんだ」俺は重ねて尋ねる。「というか、お前はあの多丸圭一さんを何
の犯人にしたてあげるつもり だ」
「そんなの知るわけないじゃないの。あれは何かを企んでいる目つきだわ。あたしの勘は
良く当たるのよ。きっとそのう ち、あたしたちをサプライズな出来事に 巻き込んでくれ
るに違いないわ」
 単なるサプライズパーティーならいいんだが、ハルヒの期待するものはチャラけたオチ
の付く誕生会のごとき居心地の 悪くなるような寒い演出ではなさそうだ。
 想像してみる。突如として人好きのする笑顔を剥ぎ取り、狂気に目をギラつかせながら
肉切り包丁片手に宿泊客たちを 切り刻まんとする圭一氏。おそらく島の森林奥にあった
古代人のドルメンをうっかり傾けたなんかして封じられた太古の悪霊に取り憑かれてしま
い命じられるま まに俺たちを供物にせんとドアを叩くオッサンの姿。
「んなアホな」
 俺は差し上げた片手を水平移動して、何もない空中にセルフツッコミを入れた。
 いくらなんでもこの古泉の知り合いがそんなことにはなりそうにないな。『機関』とや
らもそうそうバカ揃いではある まい。事前に現場検分くらいはしているはずだ。古泉も
いつもの無害スマイルを絶やさないし、新川執事や森園生さん、多丸裕さんもホラーの住
人とはほど遠い 印象だ。だいたい今回のハルヒの願望はスプラッタではなく推理物では
なかったのか。
 起こるのだとしたら連続殺人の一つや二つくらいだろう。それだって、こうも都合よく
発生するとは思えない。外は快 晴だし波浪注意報も出ていない。別にこの島は閉ざされ
た空間になっているわけでもないしさ。
 それにいくらハルヒでも、心底人死にがでることを望んでいるわけではないだろう。も
しハルヒがそんな奴なら、たい ていのことには付き合ってきた俺でも、そろそろ満タン
になりつつある容量の小さな堪忍袋がパンクするぜ。
 俺のささやかな心配を、まったく読み取ることもなくハルヒは無邪気な声を上げた。
「まずは泳ぎね。海に来たら泳ぐ以外の何もすることはないと言っても過言ではないわ。
みんなでばーっと沖をどこまで も泳いでいきましょ。誰が一番最初に潮にさらわれるか、
勝負よ!」
 やってもいいけどな。海難救助隊がすぐ横でスタンバイしてくれているのならさ。
 しかし到着したばかりだと言うのに、もう行動するのか。少しは船旅の疲れを癒そうと
は考えないのだろうかね。もっ ともハルヒは疲れていないかもしれないが、自分を基準
にして物事を進行するのは少しでいいから遠慮してくれい。
「なーに言ってんのさ。たとえアポロン神殿に貢ぎ物を捧げたとしても太陽は立ち止まっ
てくれたりはしないのよ。水平 線に沈む前に行動を起こさなきゃ時間がもったいない
じゃん」
 ハルヒは両腕を伸ばして朝比奈さんと長門の首を抱え込んだ。
「あわふ」と目を白黒させる朝比奈さんと、「…………」と無反応の長門。
「水着よ水着。着替えてロビーに集合ね。うふふふひひひ。この娘たちの水着はあたしが
選んであげたのよ。キョン、楽 しみでしょう?」
 あんたの考えている事なんてまるっきりお見通しよ、みたいな顔でハルヒは薄気味悪く
白い歯を見せる。
「その通りだとも」
 開き直って胸を張った。半分以上、それが目的で来たからな。誰にも異議を唱えさせた
りはしないぞ。
「古泉くん、ここのプライベートビーチは貸し切りなんだったよね!」
「ええ、そうです。見物人は浜辺の貝殻くらいのものでしょう。人跡未踏の砂浜ですよ。
ただし潮の流れは速いので、あ まり沖合いには出ないほうがいいと言っておきましょう。
先ほどの勝負が本気なのだと仮定しての話ですけど」
「まっさか。冗談よ冗談。みくるちゃんなんかあっと言う間に黒潮に乗ってカツオのエサ
になっちゃいそうだもんね。み んな、いい? 調子に乗って遠くまでいっちゃたらダメ
よ。あたしの目の届く範囲で遊びなさい」
 一番調子に乗っているハルヒに保護者役を任せていいものかね。ここは俺が一肌脱いで
しかるべきだろう。少なくとも 朝比奈さんから二秒以上視線を外すことのないように気
をつけるとしよう。
「そこ! キョン!」
 ハルヒの人差し指が俺の鼻先に突きつけられ、
「ニマニマ顔は気持ち悪いからやめなさい。あんたはせいぜい半分口開けた仏頂面がお似
合いよ。あんたにはカメラは渡 さないからね!」
 あくまでハイテンション、傍若無人エクスプレスなハルヒは笑いながら宣言した。
「さあ、行くわよ!」

 ということで、やっと来た。
 海岸であり、砂浜だった。日差しは傾きかけているが熱光量は確実に夏のそれである。
押し寄せる波が砂を洗い、綿菓 子みたいな白い雲が彼方の紺碧の背景をゆっくりと移動
していた。むうっと鼻をつく潮風が俺たちの髪をなびかせ、おいでおいでをせんばかりに
海面上を緩やか に吹き進む。
 プライベートビーチと言えば耳触りがいいが、要するにわざわざ貸し切るまでもない人
里離れた単なる島の浜辺であ り、海水浴にこんなところまで来ようなどという人間がい
るとしたらインチキ旅行雑誌に騙された外国人観光客くらいのものだろう。言うまでもな
く、見渡す限 り俺たち五人以外の人影は皆無であり、水鳥の一羽も飛んでいない。
 そのようなわけなので、ハルヒたち女性組の水着姿を目に入れる栄誉に浸れるのは、岩
場に貼り付いているフジツボく らいのものであった。俺と古泉を除けば。
 ビーチパラソルの影にゴザ敷いて、俺が朝比奈さんの照れくさそうな仕草に目を細めて
いると、ハルヒが横から朝比奈 さんをすばやく掠め取り、
「みくるちゃん、海では泳いでこそナンボの世界よ。さあ行きましょう。光を浴びないと
健康にも 悪いからね!」
「いやあのあたしあんまり日焼けはその、」
 尻込みする朝比奈さんに構わず、ハルヒは白く小柄な上級生とともに波打ち際に突進し、
ダイブ。
「わっ、辛い」
 そんな当たり前のことに驚く朝比奈さんにバシャバシャ海水を浴びせかけるのだった。
 そのとき長門は。
「…………」
 ゴザの上に正座して、水着姿のまま広げた文庫本を黙々と読んでいた。
「楽しみかたは人それぞれですよ」
 ビーチボールに息を吹き込んでいた古泉が口を離して俺に微笑みかけた。
「余暇の時間は自分の好きなように過ごすべきです。でないとリフレッシュの意味がない
でしょう。三泊四日、せめて ゆっくりのどかな合宿生活を楽しもうではありませんか」
 好きなように過ごしているのはハルヒだけではないだろうか。一方的にじゃれつかれて
いる朝比奈さんがのどかな気分 を味わっているとは到底思えないが。
「こらキョン! 古泉くん! あんたらも来なさい!」
 ハルヒのサイレンみたいな声が俺たちに投げかけられ俺は立ち上がった。告白すると、
決して嫌々ではない。ハルヒは ともかく、朝比奈さんの側に近づけるのは俺の本望であ
る。膨らませたビーチボールをポンと弾いた古泉からパスを受け、俺は灼けた砂の上を歩
き始めた。

 適度な肉体的疲労を覚えながら別荘に戻り、一風呂浴びて部屋で休んでいたら空は星空
が支配する時間 となって、森さんが我々を食堂に案内した。
 晩餐の時間である。
 その日の夕食はそりゃもう豪華なもんだった。別に朝比奈さんが特に
望んだというわけでもないだろうが、刺身盛り合 わせが一人につき一舟
あるだけでも貧乏性の俺は思わず居住まいを正してしまう。これで食費
宿泊料無料? 本当にいいのだろうか。
「全然けっこう」
 と多丸圭一氏は笑顔で請け負ってくれる。
「こんなところまで足を運んでくれたねぎらいだと思って欲しいね。なんたって私は退屈
だからね。いや私だって人を選 ぶよ。だが一樹くんの友人なら大いに歓迎だ」
 出迎えてくれたときと違い、圭一氏はなぜか正装をしていた。ダークスーツに身を包み、
ネクタイをウィンザーノット に結んでいる。出てくる料理は和洋折衷、何かのカルパッ
チョだかムニエルだかナントカ蒸しだかがじゃかすか出てくるが、器用にナイフとフォー
クで口に運ん でいるのは圭一氏ただ一人だ。俺たちは最初から箸を使わせて貰っている。
「すんごく美味しい。誰が作ってるの?」
 ハルヒが大食い選手権に推薦したくなるほどの食欲を見せながら訊いた。
「執事の新川が料理長も兼ねている。なかなかのものだろう?」と圭一氏。
「ぜひお礼を言いたいわね。後で呼んでちょうだい」
 すっかり高級料理店に出向いた食通気取りになっているハルヒである。
 一口食べるたびに目を丸くしたりする朝比奈さんや、小食に見えて意外と食い続ける長
門、爽やかに裕さんたちと談笑 する古泉を眺めていると、
「お飲物はいかがですか?」
 給仕係りに徹していたメイド姿の森さんが、細長い瓶を手にして微笑みかけていた。ど
うやらワインらしい。未成年に 酒を勧めるのもどうかと思うが、俺は試しに一杯所望す
ることにした。ワインなんか飲んだことないが、人間、多少の冒険心は必要だ。それに森
さんの蠱惑的な 微笑を見ていると断るのは気分的に悪いような気になったし。
「あ、キョン一人で何もらってんの? あたしも欲しいわよ、それ」
 ハルヒの要求により、葡萄酒に満たされたグラスが全員に行き渡った。
 何となく、それが悪夢の始まりだったような気がする。
 この日、俺が発見したのは、朝比奈さんがまったくアルコールに耐性がないということ
と、長門が恐ろしいばかりのウ ワバミであるということと、ハルヒがどうしようもない
酒乱であることだった。
 調子に乗って杯を傾けた俺の記憶もけっこうあやふやだったが、最後の方でハルヒは瓶
をつかんで放さずラッパ飲みし ながら圭一氏の頭をバンバン叩きつつ、
「いやーあんた最高! 呼んでくれたお礼にみくるちゃんを置いていくわ! もっとちゃ
んとしたメイドに教育してやっ てよ。もう、てんでダメなのこの娘」
 というようなことを叫んでいたような覚えがあるようなないような。
 本物メイドの森園生さんは、卓上に酒瓶をボーリングのピンのように並べると、フルー
ツ籠のリンゴや梨を器用に剥い てデザートを振る舞ってくれていて、部室オンリーの偽
メイド、朝比奈さんはすでに真っ赤な顔をしてテーブルに突っ伏していた。
 長門は森さんが持ってきた酒類をバッカバッカと空けているが、体内でいったいどんな
アルコール分解処理がなされて いるのか、長門の顔色は何一つ変化せず、鯨が海水を飲
むように次々と瓶の中身を空にしていた。
 興味深そうな顔をした裕さんが、
「本当に大丈夫なのかい?」
 そう心配して長門に話しかけていたことは記憶の端っこに引っかかっている。
 その夜、すっかり前後不覚になった俺は古泉に付き添われてベッドに辿り着くことがで
きたようだ。後で古泉が苦笑混 じりに言っていた。他にも俺はハルヒとともに何か恥ず
かしい醜態を演じていたようなのだが、なんせ記憶にはないし、聞かなかったことにして
記憶することも 拒否した。古泉得意の冗談だったということにしておこう。
 それどころではないことが翌日にあったからな。

 二日目の朝。天気はいきなり嵐になった。

 横殴りの雨が建物の壁を叩き、強風の吹きすさぶ音が耳に不吉な音となって聞こえてい
る。別荘の周囲 の森が、妖魔でも棲んでいそうな具合に鳴動していた。
「ついてないわねえ。こんなときに台風が来るなんて」
 窓の外を見ながらハルヒがこぼすように言っている。ハルヒの部屋だ。全員が集まり今
日は何をして過ごそうかと密談 の最中だった。
 朝食後のことである。朝の食卓に圭一さんはいなかった。なんでも、氏は特に朝に弱く、
寝起きが最悪のため午前中に ベッドから起きあがるのはほとんど不可能である、という
のが新川さんの説明だ。
 ハルヒは俺たちを振り返り、
「でもさ。これで本当に嵐の孤島になったわ。一生もんの状況よ。やっぱり起こるかもし
れないわね、事件」
 びくんとする朝比奈さんは不安そうに目を泳がせているが、古泉と長門の顔は平常営業
だ。
 昨日あれほど凪いでいた海は波浪警報状態で、とても船を出せる許容範囲を超えている。
明後日もこのままだと、俺た ちは不本意にもハルヒの本位によってこの島に閉じこめら
れる。クローズドサークル。まさか。
 古泉は安心させるような笑みで、
「足の速い台風のようですし明後日までには何とかなるでしょう。突然やって来たように、
去ってしまうのも突然です よ」
 天気予報ではそうらしいな。だが、昨日の時点で台風が来るなんて情報はどこからも
入っていなかったぞ。この嵐はど いつの頭から湧いて出てきたものなんだ?
「偶然ですよ」
 古泉は余裕をかましている。
「一般的な自然現象です。夏の風物詩と言えるでしょう。大型台風の一つくらい、毎年
やってくるものですよ」
「今日は島の探検をしようと思ってたのに、これじゃ中止ね」
 ハルヒは恨めしそうに言った。
「仕方ないわ。屋内でできそうなことして遊びましょう」
 どうやら合宿のことはハルヒの脳裏から吹っ飛んで行っているようで、すっかり遊び方
面にシフトしているらしかっ た。そのほうがありがたい。島の反対側に行ったら岸壁に
巨大生物の死体が打ち上げられているのを見つけたくはないからな。
 古泉が意思表明をしだした。
「確か遊戯室があったはずです。圭一さんに言って使わせてもらいましょう。麻雀とビリ
ヤードと、どちらがいいです か? 卓球台も言えば出してくれるでしょう」
 ハルヒも同意して、
「じゃあピンポン大会。リーグ戦総当りでSOS団初代ピンポンチャンピオンを決めま
しょう。ビリの人は帰りのフェ リーでジュース奢りだからね。手抜きは許さないわよ」
 遊戯室は地下一階にあった。広々としたホールに雀卓とビリヤード台、ルーレットやバ
カラの台まである。古泉の親類 は裏でカジノでもやってんのか。ここはその賭場になっ
てるんじゃないだろうな。
「さて?」と古泉はとぼけた笑みで答え、壁際で折りたたまれていた卓球台をスライドさ
せてきた。
 ちなみに俺との激戦のすえハルヒが優勝を飾ったピンポン大会の後は、麻雀大会が開催
の運びとなった。古泉以外の SOS団メンバーはやり方を知らなかったので教わりなが
らのプレイである。途中で二人の多丸氏も参加して、なんとも賑やかな麻雀となったこと
は確かだ。 ルールを曲解したハルヒは自分で勝手な役を考案し『二色絶一門』『チャン
タモドキ』『イーシャンテン金縛り』などの謎の役で次々と俺たちからアガり続け た。
まあ笑えたから許してやる。ノーレートだったしさ。
「ロン! たぶん一万点くらい!」
「涼宮さん、それ役満ですよ」
 俺は密かに息を吐いた。前向きに考えることのほうがよかったかもしれん。普通に旅行
を楽しむのが一番だ。この展開 では胡乱な大海獣が出てくることも森の奥から原住民が
出てくることもないだろう。何といっても絶海の孤島だ。外から変なもんがやってくるこ
とはない。
 そう思い、俺は安堵することにした。多丸圭一氏も裕さんも、新川・森の使用人さんコ
ンビも古泉の知り合いにしては 普通の人間に見える。妙な事件が発生するには、ちょっ
と登場人物が足りないだろう。
 そういうことにしておきたい、と俺は思ったのだ。
 しかし、そうは問屋が卸さなかった。この場合の問屋がどんな業種で何を取り次いでい
るのかは解らないが、もしどこ の問屋かが解っていたら俺はそこに一年くらいの業務停
止命令をくだしたい。
 事件は三日目の朝に起こった。
 遊んで喰っての二日目は滞りなく進み、ますます天候の悪化した夜、録画再生したみた
いに一日目と同 様の宴会が催された。三日目、俺はガンガンに痛む頭を持てあましなが
ら起床するハメになり、古泉が起こしに来なければ俺もハルヒも朝比奈さんもそのまま昏
々と眠り続けただろう。
 カーテンを開ける。その三日目の朝、豪雨と暴風雨はひっきりなしに続いていた。
「明日、帰れるんだろうな」
 フラフラする思考を冷水洗顔で真っ直ぐな歩行が可能なまでにし、俺は階段を転げ落ち
ないように注意しながら降りて いった。
 食堂には俺と似たような表情をしているハルヒと朝比奈さん、いつもの表情の長門と古
泉が揃ってテーブルに着いてい た。
 多丸圭一、裕さんの兄弟はまだ来ていない。連日の二日酔いがピークに達しているのか
もしれないな。二人のグラスの 上で瓶を逆さにしていたハルヒの姿が頭に蘇る。普段で
も傍若無人なのに酒の力によって無敵となったハルヒの暴挙の数々に俺の頭痛はさらに二
段階ほどパワー アップし、金輪際酒を飲むのは止めておこうと決心を固めた。
「あたし、ワインはもうやめておくわ」
 昨夜の反省から、ハルヒもしかめ面で表明した。
「なぜかしら、夕ご飯以降の記憶が全然ないのよね。それってすごくもったいないこと
じゃない? 時間を損したような 気分がするの。うん、あたしは二度と酔っぱらったり
はしないからね。今晩はノンアルコールデーよ」
 通常に言って高校生が飲んだくれてていいはずはないから、ハルヒにしてはまともな提
言をおこなったと褒めてやるべ きだろう。ただまあ、ほろ酔いでポワポワしている朝比
奈さんはとても色っぽかったので、その程度ならいいのではないかと考えなくもない。
「では、そうしましょう」
 太鼓持ちみたいにすぐさま賛同する古泉が首肯して、ちょうど朝食の載ったワゴンを押
してきた森さんに、
「今晩は酒抜きでお願いします。ソフトドリンクオンリーでよろしく」
「解りました」
 うやうやしく森さんは一礼し、テーブルにベーコンエッグの皿を並べていた。
 俺たちが食い終える頃になっても、多丸氏兄弟は食堂に現れることがなかった。寝起き
が極端に悪いらしい圭一さんは ともかく、裕さんまで登場しないのはどうしたことかと
思っていると、
「皆様」
 新川氏が森さんを伴って俺たちの前に進み出た。その執事的な落ち着いた顔からは、読
み取りにくいが若干の困惑の色 が混じっているような気がして、何だか嫌な予感がした。
「どうしました?」
 訊いたのは古泉である。
「何か問題でも?」
「はい」と新川氏。「問題と呼べることがあったのかもしれません。先ほど森を裕様の部
屋へやったのですが」
 森さんがこっくりとうなずいて執事氏の言葉を継いだ。
「部屋に鍵がかかっていなかったものですから、勝手ながら開けさせていただいたのです
が、裕様がどこにもおられませ ん」
 鈴の鳴るような声でそうおっしゃる。森さんはテーブルクロスを見つめつつ、
「部屋はもぬけの殻でした。ベッドで眠られた形跡もありませんでした」
「しかも、主人の部屋へ内線で連絡を試みたところ、返答がございません」
 新川さんのセリフに、ハルヒはオレンジジュースのグラスから手を離して、
「何それ。裕さんが行方不明で、圭一さんが電話に出ないってこと?」
「端的に申しますと、そういうことでございます」と新川さん。
「圭一さんの部屋に入れないの? 合い鍵くらいあるんでしょう?」
「他の部屋のスペアキーは私が管理しておりますが、主人の部屋だけは別でございまして、
予備の鍵も主人しか持ってお りません。仕事関係の書類等も持ち込まれておりますので、
用心のために」
 嫌な予感が暗雲となって俺の心の三分の一ほどを覆い始めた。起きてこない館の主人。
いなくなったその弟さん。
 新川氏は上体をわずかに折りながら、
「これから主人の部屋まで赴こうと私は考えております。よろしければ皆様もご同行願え
ないでしょうか。なにやら不穏 な気配を感じるのでございます。杞憂であればよいので
すが」
 ハルヒは素早く目配せを俺に送った。何のアイコンタクトだろう。
「行ったほうがよさそうですね」
 あっさりと古泉が立ち上がる。
「もしや、病気か何かで起きあがれない状態にあるのかもしれません。ひょっとしたらド
アを破る必要があるかも」
 ハルヒがぴょんと椅子から立ち上がり、
「キョン、行きましょう。胸騒ぎがするわ。さあ、有希も、みくるちゃんも!」
 この時のハルヒは、いつになく生真面目な表情をしていた。

 手短に語ろう。
 三階の一室、圭一氏の寝室をいくら叩いても返答はなく、古泉がドアノブを回しても鍵
が開くこともなく、樫でできた 重い扉は一枚の壁となって俺たちの前に立ちはだかった。
 ここまで来る間に多丸裕さんの部屋も覗いてみたのだが、確かに森さんの言うとおり、
ベッドのシーツも乱れておら ず、誰かがここで一晩を過ごした雰囲気には到底見えない。
彼はどこに行ってしまったのか? 二人して圭一さんの部屋に篭もってでもいるのか?
「内側から鍵がかかっているということは、部屋の中に誰かがいるということです」
 古泉が顎に指を当てて思案顔をし、いつになく緊張感のこめられた声で、
「最終手段です。このドアを体当たりして破りましょう。一刻を争う事態になっていない
とも限りません」
 そうして俺たちはドアに向けてスクラムを組み、タックルを繰り返すことになったのだ。
俺と古泉、そして新川さんの 三人で、だ。長門ならピッキングの一つくらいやってのけ
てくれそうだったが、こうも衆人環視の中でインチキマジックを発動させるわけにもいか
ない。SOS 団の女子三人とメイド森さんが見守る中、俺たち男衆三人は何度となく体
当たりを敢行し、俺の肩の骨がそろそろ悲鳴を上げようとした時----。
 やっと扉が弾けるように開いた。
 雪崩をうって俺、古泉、新川さんはそのままの勢いで室内に倒れ込み、そして----。
 そう、かくて冒頭のシーンに戻るわけだ。やっとタイムテーブルが現在に追いついた。
ではそろそろ時間をリアルタイ ムに戻すとするか。
 ………
 ……
 …

 というような回想を終え、俺は床から身を起こした。目の前に横たわるナイフ付き圭一
さんから目を逸 らし、鍵の部分が弾け飛んだ扉を眺めた。この屋敷も新築なら扉もぴか
ぴかだな……なんて、現実から目を逸らすようなことを考える。
 新川さんが主人の身体に屈み込み、指先を首筋に当てた。そして俺たちを見上げ、
「亡くなられておられます」
 職業意識から来るのか、落ち着いた声で言った。
「ひえ、えええ……」
 朝比奈さんが廊下にへたり込んでいる。そうだろうとも。俺だってそうしたい。長門の
無表情が今は救いに思えるくら いだ。
「大変なことになりましたね」
 古泉が新川さんの反対側から圭一氏に歩み寄った。しゃがんだ古泉は、慎重な手つきで
背広姿の圭一氏に手を伸ばし、 そっと上着の襟をつまみ上げる。
 白いワイシャツに赤黒い液体が染みこみ、不恰好な模様を形作っていた。
「おや?」
 怪訝そうな声を出す。俺もそれを見た。ワイシャツのポケットに手帳が入っている。ナ
イフはスーツの上から手帳を貫 通し、さらに体内へ到達しているようだった。この凶行
を実行した人間は、よほどの腕力で事に及んだらしい。ここにいる女性たちの仕事ではな
さそうだ。あ あ、ハルヒのバカ力なら可能かな。
 古泉は沈痛なオーラを声に滲ませて、
「まずは現場保存が第一です。とりあえずこの部屋を出ましょう」
「みくるちゃん、あなた大丈夫?」
 ハルヒが心配そうに言っているのもむべなるかな、朝比奈さんはどうやら気絶していた。
長門の細い足にもたれるよう に、座り込んだままぐったりと目を閉じている。
「有希、みくるちゃんをあたしの部屋まで運びましょう。そっちの手を持って」
 ハルヒが妙に常識的なことを言っているのも動転の表れかもしれない。長門とハルヒに
両側から抱えられた朝比奈さん は、ずるずる引きずられて階段へと姿を消した。
 俺はそれを確認し、とりあえず周囲を観察した。
 新川さんは苦渋に満ちた顔で主人の躯に合掌し、森さんも悲しげな顔をひっそりと伏せ
ている。そしてやはり、多丸裕 さんはどこにもいない。外は嵐。
「さて」と古泉が俺に話しかける。「ちょっと考えるべき事態が発生したようですよ」
「何だ」と俺。古泉はふっと唇を笑みに戻した。
「気付いていないのですか? この状況は、まさしくクローズドサークルですよ」
 そんなもんとっくに知っている。
「そして、一見すると殺人事件でもあります」
 自殺には見えないからな。
「さらに、この部屋は密室になっていました」
 俺は首を巡らせて鍵のかかっている窓を眺めた。
「出入り不能な部屋で、犯人はどうやって犯行をおこない、出て行ったのでしょうか」
 そんなもん犯人に訊けよな。
「まったくです」と古泉は同意した。「その辺りのことは裕さんに訊かねばなりません
ね」
 古泉は新川さんに警察への連絡を依頼して、改めて俺に向き直る。
「先に涼宮さんの部屋に行っておいてください。僕も後で行きますので」
 そうしたほうがよさそうだ。ここで俺にできることはあまりない。

 ドアをノックする。
「誰?」
「俺だ」
 扉が細く開き、ハルヒの顔が覗いた。なにやら複雑な表情で俺を招き入れる。
「古泉くんは?」
「もうすぐ来るだろ」
 ツインベッドの片方に朝比奈さんが寝かされている。通りすがりの王子でなくてもキス
しないといけないような気分に なる寝顔だが、やや息苦しそうな表情なのは絶賛気絶中
なので仕方がない。
 その傍らでは、長門が墓守のような顔をして椅子に座っている。そうしておいてくれ。
朝比奈さんから離れないように 頼むぞ。
「ねえ、どう思う?」
 ハルヒの問いは俺に向けられているようだ。
「どうって?」
「圭一さん。これって殺人事件なの?」
 客観的に己の置かれた立場を見つめてみたら答えも自ずと導き出されるであろう。俺は
そうしてみた。鍵のかかった部 屋をぶち破って入ったらピクリともせずに倒れている館
の主人がいて、その胸からはナイフの柄が生えていた。嵐の孤島に密室殺人。できすぎだ。
「どうやらそうらしい」
 数秒間のタイムラグ、俺の答えにハルヒはほわっとした息を吐いた。
「うーん……」
 ハルヒは額に手を当てて、自分のベッドに腰を落とした。
「まさかなあ。こんなことになっちゃうなんて、思いもよらなかった」
 呟いているが、それこそまさかだな。さんざんお前は事件を熱望するようなことを言っ
てたじゃないか。
「だって、本当になるとは思わないもん」
 ハルヒは唇を尖らせ、すぐに表情をあらためた。こいつはこいつでどういう顔をしてい
いか悩んでいるようだ。喜んで はいないようで一安心だ。俺が第二の被害者の役割を押
しつけられるようなことになったらたまらんからな。
 俺は天使の寝顔を見せている上級生を見つめた。
「朝比奈さんの調子はどうだ」
「だいじょうぶでしょ。気絶しただけよ。なんだかすごく素直な反応で感心するわ。みく
るちゃんらしいわよね。ヒステ リーを起こされるよりマシだけどさ」
 どこか上の空っぽくハルヒは言った。
 嵐の島で発生した密室殺人。旅行先で、たまたまそんなもんに出くわしてしまう確率は
いかほどのもんだろう。しかし 俺たちはSOS団であってミステリ研究会でも推理小説
同好会でもない。まあ確かに、不思議を探し求めるのがハルヒ的SOS団の活動理念だか
ら、今現在の俺 たちの境遇はそれなりにマッチしているのかもしれないが、実際に出く
わしてしまうとなると話は別の方向にスライドする。
 これもハルヒが望んだから起きた事件だと言うのか?
「ううむむむ。困ったことになったわね……」
 ベッドから足を下ろし、ハルヒはうろうろと部屋の中を行ったり来たり。
 どうもだが、エイプリルフールのつもりで言った冗談が本当になってしまって困惑する
悪戯小僧のような風情を感じさ せる。カラだと思って逆さにした瓢箪から特大の駒が転
げ落ちてきてしまったような雰囲気だ。俺にとってもあまり気分のいい雰囲気ではないな。
 さて、どうするか。
 できれば俺も朝比奈さんの隣で添い寝したかったが、ここで現実逃避をしていてもしか
たがない。善後策を講じなけれ ばならないだろう。古泉はどうやるつもりなのか。
「うん、やっぱりじっとなんかしてられないわ」
 やはりと言うべきか、ハルヒは力強く断言して俺の前に立ち止まる。真面目な表情で、
ハルヒは俺に挑みかかるような 視線を向けてきた。
「確認しておきたいことがあるの。キョン、あんたもついてきなさい」
 朝比奈さんをこのままにして部屋を出たくないんだが。
「有希がついてるから平気よ。有希、ちゃんと鍵を閉めて、誰が来ても空けちゃダメよ。
わかった?」
 長門は沈着冷静な顔で俺とハルヒをじっと見つめ、
「わかった」
 起伏のない声で返答をよこした。
 ツヤ消し処理された瞳が一瞬、俺の視線と直線を結んだとき、長門は俺にしか解らない
ような角度でうなずいた ----ような気がする。
 おそらく俺とハルヒに危険が降りかかることはないんだろう。もし何かさらに異常な事
態になるようなら、長門だって 黙って座っていたりはしない。俺は先だっての、コン
ピュータ研部長の部屋に行ったときのことを記憶から引っ張り出して、そう思うことにし
た。
「行くわよ、キョン」
 俺の手首をひっつかみ、ハルヒは部屋から廊下へと第一歩を踏み出した。
「それで、どこに行くんだ?」
「圭一さんの部屋よ。さっきは観察する余裕がなかったから、もう一回確認しておくの」
 ナイフを胸に突き立てて転がる圭一さんと、白いシャツにべったりついた血糊を思い出
して、俺は躊躇するものを感じ る。あまりしげしげと見るべき光景ではないぞ。
 ハルヒは歩きながら言った。
「それから裕さんがどこ行ったのかも調べないと。ひょっとしたらまだ建物の中にいるか
もしれないし、それに……」
 これだけの騒ぎだ。もし裕さんが事件と何の関係もないのであれば、姿を現していない
とおかしい。現れないというこ とは二つの可能性が考えられる。
 ハルヒに引かれるまま、俺は階段を上りながら、
「裕さんが犯人でとっくに別荘から出て行ったか、あるいは裕さんも被害者になっちまっ
てるか……だな」
「そうよね。でも裕さんが犯人じゃなかったら、ちょっぴりイヤな展開よね」
「誰が犯人でも俺はイヤだがな……」
 ハルヒは俺を横目で見る。
「ねえキョン。この館には多丸さん兄弟を除けば、新川さんと森さん、それからあたした
ち五人しかいないのよ。その中 に犯人がいるってことになるじゃないの。あたしは自分
の団員を疑いたくなんかないし、警察に突き出したりしたくはないわよ」
 しんみりした声に聞こえた。
 なるほど、仲間内に殺人犯がいることを懸念しているのか。そんな可能性を俺はまった
く考慮していなかった。朝比奈 さんは問題外として、長門だったらもっと上手くやるだ
ろうし、古泉なら……。そういえば、多丸さんに最も近いところにいるのは古泉だ。親戚
だとか言ってい た。まるっきり赤の他人である俺たちより立場的に親しいのは間違いな
い。
「いや」
 俺は自分の頭を小突いた。
 古泉だってバカではない。こんな状況でわざわざギリギリなことはしやせんだろう。状
況がクローズドサークルになっ たからといって、その状況に合わせるように殺人事件を
起こしたりするほど頭がすっ飛んでいるわけではないと思う。
 そんなことを考えつくのは、ハルヒくらいでいい。

 三階、圭一さんの部屋の前では、新川執事氏が歩哨よろしく仁王立ちに待ちかまえてい
た。
「警察に連絡しましたところ、誰の立ち入りも許可しないようにとのことでございます」
 慇懃に頭を下げる。部屋の扉は俺たちがぶち破った状態で開け放たれ、新川さんの身体
の脇からわずかに圭一さんの爪 先が見えるのみだった。
「いつ来るの? 警察」
 ハルヒが質問し、新川さんは丁寧に答えてくれた。
「嵐が収まり次第とのことでございます。予報によれば、明日の午後には天候の回復が見
込まれるようですから、その頃 あたりになるのではないでしょうか」
「ふーん」
 ハルヒは扉の向こうにチラチラとした視線を送っていたが、
「ちょっと訊きたいんだけど」
「何でございましょう」
「圭一さんと裕さんって仲悪かったの?」
 新川さんはザッツ執事と言いたくなるような立ち振る舞いをわずかに変化させた。
「正直申し上げまして解りかねますな。なんとなれば、私がここに仕えるようになりまし
たのは、この一週間程度のこと でございますので」
「一週間?」と俺及びハルヒ。
 新川さんはゆったりとうなずいた。
「左様です。執事であることには変わりはございませんが、私はパートタイム、臨時雇い
の執事でございます。夏のホン のひととき、二週間ばかりの契約でございました」
「つまり、この別荘のみってことなの? 昔から圭一さんのとこにいたんじゃないの
ね?」
「左様で」
 新川執事は圭一さんがこの島で過ごす期間だけの期限付き執事だったわけだ。したらば、
もしや。
 俺の疑問はハルヒの疑問でもあったようで、
「森さんもそうなの? あの人も臨時雇われメイドなのかしら」
「おっしゃるとおり、彼女も同時期に採用を受け、ここに来ましてございます」
 なんとも豪毅なことだ。圭一さんは、サマーバカンスのためだけに執事とメイドを雇っ
たことになる。なんか金の使い 方を間違えているような気もするが、それにしても執事
とメイドね……。
 心の端で微細な引っかかりが転げ落ちようとした。俺はそいつをすくい上げてやる。そ
して新川さんの顔を注意深く観 察してみた。生真面目という単語に鎧われた老紳士にし
か見えない。おそらくそれは正しいのだろうが、しかし……?
 俺は何も言わず、その小さな引っかかりを胸にしまい込んだ。後であいつに会ったとき
に投げつけてやる言葉だな、こ れは。
「なるほどねえ。使用人にも正社員と派遣があるわけね。なんだか参考になったわ」
 何の参考にするつもりか、ハルヒは合点がいったようでうなずき、
「部屋に入れないんじゃしょうがないわ。キョン、次に行くわよ、次に」
 また俺の腕を取って、ずかずかと歩き始めた。
「今度はどこに行くんだよ?」
「外。船があるかどうか確かめるの」
 この台風の中でハルヒと二人でそぞろ歩きってのは気が進まないな。
「あたしはね。自分の目で見たものしか信用しないの。往々にして伝聞情報には余計なノ
イズが混じっているものなの よ。いい? キョン。重要なのは一次情報なわけ。誰かの
目や手を通した二次情報は最初から疑ってしかるべきなの」
 そりゃまあ、ある意味もっともな意見と言えるだろうが、それでは自分の視界に入る以
外のものほとんどが信じられな いことになっちまうな。
 俺が情報メディアの有用性について考えているうちに、ハルヒは俺を一階へと運び込ん
でいて、降りたところに森園生 さんがいた。
「外に出られるのですか?」
 森さんは俺とハルヒに言って、ハルヒも言い返した。
「うん。船があるかどうか調べようと思って」
「ないと思われますが」
「どうして?」
 うっすらと微笑して、森さんは答える。
「昨晩のことです。裕様の姿をお見かけしたのは。その時、裕様は何かにせき立てられる
ようなお急ぎのようで、玄関口 へと向かっておられたのです」
 俺はハルヒと顔を見合わせ、
「裕さんが船をかっぱらって島を出て行ったと言うんですか?」
 森さんは薄い微笑みをたたえた唇を動かし、
「廊下ですれ違っただけですし、裕様が実際に出て行ったところを見たわけでもありませ
ん。でも、わたしが裕様を見た のは、それが最後です」
「何時頃?」とハルヒ。
「午前一時前後だったと思います」
 俺たちがへべれけとなって熟睡していた時間帯だ。
 圭一さんがスーツ姿で床に転がるハメになったのも、その頃であると当確サインを出し
ていいものだろうか。

 扉を開けると散弾のような雨粒が叩きつけてきた。風雨に押されて重くなったドアをな
んとかくぐり抜 けて外に出た途端、俺とハルヒは数秒と保たずに濡れ鼠となっている。
水着で来ればよかったかな。
 暗灰色の雲に覆われた空が水平線まで切れ目なく続き、俺はいつぞやの閉鎖空間を思い
出した。どうもこういうモノク ロの世界は好きになれそうにない。
「行くわよ」
 雨のせいで髪とTシャツを身体に張り付けながら、ハルヒは雨中行軍を敢行する。俺も
ついて行かざるを得ない。ハル ヒの手はやはり俺の手首を握りしめていた。
 羽根を付ければ高く舞い飛ばされそうな風の中、俺たちは豪雨の恰好
の餌食となりつつ、波止場の見える位置までじわ じわ進んでいった。、
うっかりすれば崖の下へと転落する恐れがある。さすがの俺もこりぁヤ
バイと感じるようになってきた。自分だけ落っこちるのもシャクな ので、
俺はハルヒの手首を握りかえしてやる。こいつとなら、落ちても生還の確率が上昇するよ
うに思ったのでね。
 やっとの思いで俺たちは階段の頭頂にたどり着いた。
「見える? キョン」
 風に紛れがちのハルヒの言葉に、俺はうなずき返した。
「ああ」
 波止場はほとんど冠水状態で、打ち寄せる巨大な浪波だけが岸辺で動くすべてだった。
「船がない。流されてたんでなければ、誰かが乗って行っちまったんだろ」
 俺たちが島から脱出できる唯一の交通手段。あの豪勢なクルーザーは眼下に広がる海面
のどこを探しても見あたらな い。
 なんともはや。
 かくして、俺たちは孤島に隔離されたってわけだ。

 俺たちは再び這うような速度で別荘まで戻り、ようやく扉の内側に入れたときには全身
まんべんなく濡 れネズミとなっていた。
「お使いください」
 気を利かせて待機していたらしく、森さんがバスタオルを差し出してくれた。控えめな
口調で、
「どうでしたか?」
「あなたの言う通りみたい」
 黒髪をタオルで擦っていたハルヒは憮然とした面持ち。
「クルーザーはなかったわ。いつからないのかは解んないけど」
 森さんはそれが地顔なのか、蛍に光みたいな微笑みをずっと浮かべている。多丸圭一氏
殺傷事件に何らかの動揺を感じ ているのだとしても、彼女の穏やかな顔からはプロ
フェッショナルなまでに覆い隠されていた。短期のメイドの雇い主に対してだから、それ
が普通なのかもな。
 廊下に水滴を落として歩くことを森さんに詫びつつ、俺とハルヒはそれぞれの自室に着
替えのために戻ることにした。
「後であたしの部屋に来てよね」
 階段を上がっている途中でハルヒは言った。
「こういうときはみんなで一塊りになっていたほうがいいわ。全員の姿が目に入っていな
いと落ち着かないもの。それに 万一……」
 言いかけてハルヒは口を閉ざす。何が言いたかったのか、なんとなく解ったような気が
して俺もツッコミを封印する。
 そのまま二階に到着すると、廊下に古泉が立っていた。
「ごくろうさまです」
 古泉はいつもの微笑で俺たちに目礼を送ってよこした。ハルヒの部屋の前である。
「何してんの?」
 ハルヒが訊くと、古泉は微笑を苦笑に変化させ、ひょいと肩をすくめた。
「今後のことをご相談しようと涼宮さんの部屋を訪問したのですが、長門さんが中に入れ
てくれないのです」
「どうして?」
「さあ」
 ハルヒは扉をガンガンとノックした。
「有希、あたしよ。開けてちょうだい」
 短い沈黙の後、長門の声が扉越しにこう告げた。
「誰が来ても空けるなと言われている」
 朝比奈さんはまだ失神中のようだ。ハルヒは首にかけたタオルを指先で弄ぶ。
「もういいわ。有希、開けてったら」
「それでは誰が来ても開けるなという命令に反することになる」
 唖然とした顔でハルヒは俺を見て、また扉に向かった。
「あのさ有希。誰もってのは、あたしたち以外の誰もってことよ。あたしとキョンと古泉
くんは別なの。同じSOS団の 仲間でしょ?」
「そうは言われなかった。わたしが言われたのは誰に対してもこの扉を開けてはいけない
という意味の指示だと、わたし は解釈している」
 長門の静かな口調は、筆記係に託宣を教える女神官のようであった。
「おい、長門」
 たまりかね、俺は口を挟んだ。
「ハルヒの命令はたった今解除された。なんならその命令は俺が上書きする。いいから開
けろ。頼むからさ」
 木戸の向こうにいる長門はコンマ数秒ほど考えたようだ。かしょんと内側の鍵を捻る音
がして、ドアがしずしずと開き 始めた。
「…………」
 長門の瞳が俺たち三人の上を通り過ぎ、無言のまま奥へと退いた。
「もう! 有希、少しは融通をきかせなさいよ。そのくらい意味をちゃんと把握してちょ
うだい」
 古泉に着替えるまで待つように言って、ハルヒは部屋に引っ込んだ。俺も乾いた服が恋
しくなっていた。いったん退散 させてもらおう。
「じゃあな、古泉」
 歩きながら俺は考えていた。
 さっきのやり取りは、もしや長門流のジョークだったのではないだろうか。言葉の意味
をはき違えた、解りにくく面白 くもないジョーク。
 頼むぜ長門。お前は表情も顔色も変化なしだから、いつも本気だとしか思えないんだよ。
冗談を言うときくらい笑 顔の 一つくらいしてもいいんだぞ。なんなら古泉のように意味
もなく笑ってろ。絶対その方がいい。
 今は笑っている場合ではないけど。

 濡れた服を脱ぎ捨て下着まで替えて再び廊下に出ると、古泉の姿はすでになかった。ハ
ルヒの部屋まで 来てノックする。
「俺だ」
 開けてくれたのは古泉だった。俺が足を踏み入れて扉を閉めると同時に、
「クルーザーが消えているそうですね」
 古泉は壁にもたれて立っている。
 ハルヒがベッドに上で胡座を組み替えた。さすがにハルヒもこの事態を喜んでいるわけ
ではなさそうで、むっつりとし た顔を物憂げに上げ、
「なかったわよね、キョン」
「ああ」と俺。
 古泉は言った。
「誰かに乗り逃げされたようですね。いや、もう誰かなどと言っても仕方がないでしょう。
逃げたのは裕さんですよ」
「なぜ解る?」と俺は問い、
「他にいませんから」
 古泉は冷然と答えた。
「この島には僕たち以外の人間は招かれていませんし、その招待客の中で館から姿を消し
たのは裕さんだけです。どう考 えても、彼が乗り逃げ犯で間違いないでしょう」
 古泉は滑らかな口調で続ける。
「つまり、彼が犯人なんです。おそらく夜のうちに逃げ出したのでしょうね」
 眠った痕跡のない裕さんのベッドと、森さんの証言。
 ハルヒが先ほどの会話を古泉に教えてやると、
「さすが涼宮さん。すでにお聞き及びでしたか」
 古泉はべんちゃらを言い、ふうむと俺は無意味に唸った。
「裕さんは何かに脅えるような急ぎようだったということですが、それが裕さんを見た最
後の目撃証言で合ってます。新 川さんにも確認しました」
 それにしたってさ、真夜中に台風の来ている海に乗り出すなんて、ほとんど自殺行為
じゃないか?
「それほど急ぎの用が発生したのでしょう。たとえば殺人現場から逃げ出す、というよう
な」
「裕さんはクルーザーの運転ができるのか?」
「未確認ですが、結果から考えてできたのでしょう。現に船はなくなっているのですか
ら」
「ちょっと待ってよ!」
 ハルヒは挙手して発言権を得た。
「圭一さんの部屋の鍵は? 誰がかけたの? それも裕さんなわけ?」
「そうではないようです」
 古泉はやんわりと否定の仕草。
「新川さんが言っていた通り、あの部屋の鍵はスペアを含めて圭一さんが管理していまし
た。調べたところ、すべての鍵 は室内にありましたよ」
「合い鍵を作っていたのかもしれん」
 俺が思いつきを言うが、古泉はそれにも首を振った。
「裕さんがこの別荘に来たのも、今回が初めてのはずです。合い鍵を作る余裕があったと
も思えません」
 古泉は両手を広げて、お手上げのジェスチャー。
 室内に無言が停滞し、暴風と豪雨が島を削る不協和音が小さく遠くの出来事のように空
気を振動させている。
 俺とハルヒがコメントする言葉もなく沈黙していると、古泉がそれを破った。
「ただし、裕さんが昨夜に犯行に及んだとしたら、おかしなことになります」
「何が?」とハルヒ。
「さきほどの圭一さんですが、僕が触った彼の肌はまだ温もりを失っていませんでした。
まるで、ついさっきまで生きて いたように」
 不意に古泉は笑みを浮かべた。そして朝比奈さんの侍女のように控えている沈黙の精霊
みたいな姿に言った。
「長門さん、僕たちがあの状態の圭一さんを発見したとき、彼の体温は何度でした?」
「三十六度三分」
 間髪入れず、長門は答える。
 待て、長門。触れてもいないのにどうして解る? それも質問を予期していたような反
射速度でさ……などと俺は言わ ない。
 この場で疑問を持つだろう唯一の人間はハルヒだが、考え込むのに忙しいのか、そこま
で頭が回っていないようで、
「それじゃほとんど平熱じゃないの。犯行時間はいつになるのよ」
「人間は生命活動を停止すると、およそ一時間につき一度弱ほど体温を低下させていきま
す。そこから逆算した圭一さん の死亡推定時刻は、発見時からだいたい一時間以内って
ことでしょう」
「待て、古泉」
 さすがにここはツッコムところだ。
「裕さんがどっかに行ったのは夜の事じゃないのか?」
「ええ、そう言いました」
「だが、死亡推定時刻はさっきから一時間以内くらいだって?」
「そういうことになりますね」
 俺はこめかみを押さえた指に力を込める。
「すると、裕さんは台風の夜に別荘を出て、いったんどこかに潜んでおいてから朝に戻っ
てきて、圭一さんを刺して船で 逃げたのか」
「いえ、違います」
 古泉は余裕でかわした。
「仮に死亡推定時刻に幅を取り、俺たちが発見するまでに一時間少々かかったと推定しま
しょう。ですが、その頃、僕た ちはとっくに起きだして食堂に揃っていました。その間、
僕たちは裕さんの姿はおろか物音一つ聞いていません。いくら外が台風とは言え、それで
は不自然です よ」
「どういうことなのよ」
 ハルヒが不機嫌そうに言った。腕組みをして、睨むような視線を俺と古泉に向けている。
俺を睨んでも何も出てこない ぞ。教えを請うのならこっちの微笑みくんに言え。
 古泉は言った。軽く、世間話でもするような口調で。
「これは事件でもなんでもないです。単なる悲しむべき事故なんですよ」
 お前の態度は悲しんでいるように見えないが。
「裕さんが圭一さんを刺したのは間違いないと思われます。出ないと裕さんが逃げ出す理
由が解りません」
 まあ、そうなんだろうな。
「どのような事情や動機があったか知りませんが、裕さんはナイフで圭一さんに襲いかか
りました。おそらく、背後に 握った手を隠しておいて正面からいきなり突き刺したので
しょう。圭一さんは身構える時間もなく、ほぼ無抵抗に刺されたのです」
 見てきたようなことを言う。
「しかしその時、ナイフの切っ先は心臓まで達していなかったのですよ。肌に触れていた
かどうかも怪しいですね。ナイ フは圭一さんが胸ポケットに入れていた手帳に突き立ち、
そして手帳しか傷つかなかったのでしょう」
「え? どういうこと?」
 ハルヒが眉の間に皺を刻んで言った。
「じゃあなんで、圭一さんは死んじゃってたのよ。別の人が殺したの?」
「誰も殺してはいません。この事件に殺人犯はいないんですよ。圭一さんがああなったの
は、単なる事故なのです」
「裕さんは? あの人はなぜ逃げたの?」
「殺したと思い込んでしまったからです」
 古泉は悠然と答え、人差し指を立てた。こいつはどこぞの名探偵になったつもりなのか。
「僕の考えをお教えします。経緯はこうですよ。昨夜、殺意を持って圭一さんの部屋を訪
れた裕さんは、圭一さんをナイ フで刺す。しかしナイフは手帳に阻まれ、致命傷にはな
りえなかった」
 何を言い出すのかと思ったが、しばらく聞いておいてやろう。
「しかしここでややこしいことが発生します。圭一さんはてっきり自分の身体が刺された
と思い込んだんですよ。ナイフ が手帳にぶつかっただけでも相当な衝撃があったことで
しょう。加えて、刃物が自分の胸から生えている様を見て、精神的なショックがあったこ
とも類推できま す」
 俺は古泉の言いたいことが段々理解できるような気になってきた。おいおい、まさか。
「その思い込みの力により、圭一さんは気を失ってしまいます。くたくたと、この時は横
向きか後向きに倒れたんです ね」
 古泉は息を継ぎ、
「それを見た裕さんも、殺したと信じ込みました。後は簡単、逃げ出すだけです。どうも
計画性はなさそうですから、何 かの拍子に殺意が芽生え、とっさにナイフを振るってし
まったのでしょう。それで、嵐の夜だというのにクルーザーを奪取したのです」
「え? でもそれじゃあ……」
 言いかけたハルヒを古泉は制して、
「説明を続けさせてください。意識を失った圭一さんのその後の行動です。彼は朝までそ
のまま気を失い続けていまし た。起きてこないのを不審に思った僕たちが、部屋の扉を
叩くまでね」
 あのときまで生きていたのか……?
「ノックの音で目を覚ました圭一さんは、起き上がりドアへ近付きます。しかし極度の寝
起きの悪さで、彼は朦朧として いたことでしょう。意識がはっきりしていなかったので
すよ。半ば無意識のうちに扉に近寄り、そこでようやく思い出しました」
「何を?」と、ハルヒ。古泉は微笑みを返し、
「弟に殺されかけたことをです。そして目蓋の裏にナイフを振りかざす裕さんが蘇った圭
一さんは、とっさに扉に鍵を掛 けてしまったのです」
 我慢できず、俺は口を挟んだ。
「それが密室状態の真相だと言うんじゃないだろうな」
「残念ながら言うつもりです。気絶したまま眠りに就いた圭一さんには時間の感覚が失せ
ていたのです。裕さんが再び 戻ってきたのではと思い込んだんですよ。たぶんタッチの
差だったんでしょう。僕が通路側からノブを握ると、内側から施錠されたのはね」
「殺人犯がトドメをさしに来たとして、わざわざノックするわけないじゃないか」
「このときの圭一さんは何せ朦朧としていましたから、混濁した頭ではとっさの判断がく
だせなかったんですよ」
 なんて強引な理屈だ。
「さて、施錠を終えた圭一さんは扉から離れようとしました。本能的に身の危険を感じた
のでしょうね。悲劇が起きたの はこの時です」
 古泉は首を振り、さも悲劇を語るように、
「圭一さんは足をもつれさせ、転倒してしまいました。こう、倒れるようにです」
 古泉は身体を折って前のめりのジェスチャー。
「その結果、胸の手帳に突き刺さっていただけのナイフは、床に倒れた勢いで柄を押し込
まれることになったのです。刃 は圭一さんの心臓を貫き、彼を死に至らしめた……」
 俺とハルヒがバカみたいに口を開けるのを尻目に、古泉は力強く言った。
「それが真相ですよ」
 なんだって?
 そんなアホみたいなことで圭一さんは死んでしまったのか? そんな都合良く何もかも
が進むか? ナイフが丁度いい 感じに刺さるのもアレだが、本当に殺したかどうか裕さ
んにだって解りそうなものだが。
 俺が反論を頭で組み立てていると、
「あっ!」
 ハルヒが大声を出したせいで俺は飛び上がった。何だ突然。
「古泉くん、でもさ……」
 言いかけてハルヒは固まった。その面が驚きに彩られているが、何に驚いたんだ。古泉
の話に納得できないところでも あったのか?
 ハルヒの目が俺の方を見た。俺と目が合うと慌てたように逸らし、古泉を見ようとして
思い留まるような仕草をして、 なぜか天井を見上げ、
「んん……。なんでもないわ。きっとそうなのね。うーん。何て言うのかしら」
 意味不明な呟きを漏らしたかと思うと、それきり黙り込んだ。
 朝比奈さんは眠り続け、長門はぽつねんとした視線を古泉に注いでいた。

 いったん解散。俺たちはそれぞれの部屋に戻ることにした。古泉の話によると嵐が収ま
りしだい警察が 駆けつけるだろうということだったので、それまでに荷物をまとめてお
こうというわけだった。
 俺は適当に時間を潰した後、思惑を一つならず抱いて、とある部屋を訪ねた。
「なんでしょうか?」
 着替えのシャツを畳んでいた古泉が顔を上げ、俺に笑顔を向ける。
「話がある」
 俺が古泉の部屋を訪れた理由はただ一つ。
「納得がいかん」
 そうとも。古泉の推理では説明できない部分がある。それは致命的な欠陥だ。
「お前の説明では、死体は俯せで発見されるはずだ。しかし圭一さんは仰向けに倒れてい
た。これをどうフォローす る?」
 古泉は座っていたベッドから腰を上げ、俺と向き合うように立った。
 微笑み野郎はあっけらかんと、
「それは単純な理由です。僕が皆さんに披露した推理は、偽りの真相ですから」
 俺も大仰なリアクションはしない。
「だろうな。あんなもんで納得できるのは意識のなかった朝比奈さんくらいだ。長門に訊
けば全部教えてくれそうだが、 それはルール違反しているみたいで俺が気に入らん。本
当にお前が考えていることを言ってみろ」
 端整な顔を笑いの形に歪め、古泉は低く耳障りな笑い声を上げて、
「では言いますと、さきほど述べた真相ですがね、途中までは合っていますが最後の部分
で違うのです」
 俺は無言。
「圭一さんが胸にナイフを突き刺したまま扉に近付いてきた……それまではいいでしょう。
反射的に鍵をかけたのもね。 違うのはそこからですよ」
 古泉は椅子を勧めるような仕草をしたが、俺は無視した。
「どうやら、あなたは気づいたようですね。おみそれしましたと言うべきでしょうか」
「いいから続けろ」
 古泉は肩をすくめ、
「僕たちはドアを体当たりで破りました。正確には僕、あなた、新川さんです。そして扉
は開かれた。勢いよく、内側 に」
 俺は黙って先を促す。
「それがどのような結果をもたらしたか、あなたはもうお解りでしょう。扉のすぐ側に
立っていた圭一さんは、開け放た れたドアに身体の前面を打たれた。ナイフの柄も」
 俺は脳裏にその光景を思い描いてみた。
「そうやって押し込まれたナイフが、圭一さんを死に追いやったのですね」
 古泉は再びベッドに座り、挑むような目つきで俺を見上げた。
「つまり犯人は……」
 古泉は囁くように微笑とともに言った。
「僕とあなたと新川さん、ということになります」
 俺は古泉を見下ろしている。ここに鏡が有れば、俺はさぞ冷たい目つきをした自分の顔
を見ることがで きるだろう。そんな俺を気にするようでもなく、古泉はまだ言っている。
「あなたが気付いたように、涼宮さんもこの真相に気付いている。だから言いかけてやめ
たんですよ。彼女は僕たちを告 発しようとはしなかった。仲間を守ろうとしてくれたの
かもしれませんね」
 もっともらしい顔の古泉だった。だが、俺の納得はまだである。こんなトンチキな第二
推理に惑わされるほど、俺の大 脳新皮質はまだ耄碌していない。
「ふん」
 俺は鼻を鳴らし、古泉を睨みつけてやった。
「悪いが、俺はお前を信用できねえな」
「どういうことでしょうか」
「チャチな推理に続く第二の真相を狙ってるんだろうが、俺はそんなもんに騙されたりは
しないってことさ」
 今の俺はちょっと格好良くないか? さらに言ってやろう。
「考えてみればいい。根本的な問題をだ。殺人事件そのものに着眼すればいいだけの話さ。
いいか? そんなもんがこん な都合のいい状況で起きるわけはないんだ」
 今度は古泉が黙って俺を促す番だ。
「台風が来たのは偶然か、でなければハルヒが何かしやがったんだろうが、それはこの際
どうだっていい。問題となるの は、事件によって死体が一つ転がるってことなのさ」
 ここで間を空け、俺は唇を舌で湿らせる。
「お前はこう主張するかもしれん。ハルヒが望んだから事件が起きたのだとな。だが、口
で何を言おうとハルヒは死者の 出るようなことは望みやしない。それくらいのことはあ
いつを見てれば解る。てーことは。この事件を起こしたのはハルヒじゃない。そして、い
いか? 俺たち がその事件現場に出くわしたのも偶然じゃない」
「ほう」と古泉。「では何です?」
「この事件……と言うかこの小旅行。SOS団夏合宿と言ってもいいだろうが、今回の件
で真の犯人として指摘されるべ きはお前だ。違うか?」
 虚をつかれたように笑い顔をフリーズドライさせた古泉の時間が数秒間停止した。しか
し----。
 くすくす笑いが古泉の喉からまろび出る。
「参ったな。なぜ解りました?」
 そう言って俺を見る古泉の目は、文芸部室で見るものと同じ色を浮かべている。
 俺の脳味噌も伊達に灰色をしていなかったらしい。俺は幾分ホッとしながら言った。
「あの時、お前は長門に死体の体温を訊いた」
「それが何か?」
「その体温で、お前は死亡推定時刻がどうのとか言い出したな」
「いかにも、言い出しました」
「長門はあの通り便利な奴だ。お前も知ってるとおり、たいていのことはあいつが教えて
くれる。お前は長門に体温じゃ なくて死亡推定時刻を訊くべきだった。いや、推定じゃ
ない。あいつなら死亡時刻ジャストを秒単位で教えてくれるだろうさ」
「なるほど」
「もし死亡時刻を訊いていたなら、長門は死んでいないと答えたはずだ。それにお前はあ
の状態の多丸氏を一度も死体と 呼ばなかったな」
「せめてものフェアプレイの精神です」
「まだあるぞ。俺はこれでも見るべき所は見ている。圭一さんの部屋のドアの内側だよ。
お前の言い分では、扉はナイフ の柄にかなりの力でぶつかったはずだよな。人間の体内
にナイフをめり込ませるほどの威力でだ。そんな力が働いたら、ドアにだって少しは傷な
り凹みなりが出 来たはずだろ。だがそんなもんはなかった。傷一つない、まっさらな扉
だったぜ」
「素晴らしい観察眼です」
「それからもう一つ。新川さんと森さんのこともあるな。あの二人はここに来てまだ一週
間足らずだと言う話だ。一週間 前に雇われて、それからこの島にいる。だったよな?」
「そうですよ。それが何かおかしなことになりますか?」
「なるね。なるとも。お前の態度がおかしいだろうが。ここに来た最初の日を思い出せ。
フェリー乗り場に迎えに来てた 新川さんと森さんを見て、お前が言った言葉だぞ」
「さて、僕は何と言いました?」
「久しぶり、と、お前は言ったんだ。おかしいだろ? どうしてあの二人に対してそんな
セリフが出てくるんだ。お前は この島に来るのは初めてだとも言っていた。彼らとも初
対面のはずだ。何で新川さんと森さんを、あらかじめ知っていたような挨拶ができるんだ。
そんなわけね えじゃねえか」
 古泉はくっくっと笑った。
 それは告白の笑みでもある。俺は脱力と同時にすべてを了解し、古泉は話し始める。
「そうです。今回の事件はすべて仕込でした。大がかりな寸劇だったんですよ。あなたに
気付かれるとは思いませんでし たが」
「なめるな」
「これは失礼を。ですが、意外であったことは認めますよ。いずれ何もかも告白しようと
は思っていましたけど、こうも 早くつまびらかになってしまうとはね」
「てことは、多丸さんや森さんや他の全員がグルだったんだな。どうせ『機関』とやらの
仲間だろう」
「そうです。素人にしては名演技だったと思いませんか?」
 胸に刺さったナイフの刃は途中で折った細工がなされたもの、赤い染みは血に見せかけ
た塗料、もちろん圭一さんは死 んだフリで、いなくなった裕さんとクルーザーは島の反
対側に移動しただけ。
 と、軽やかに古泉は真相を激白した。
「なぜこんなことを計画した?」
「涼宮さんの退屈を紛らわせるために。そして僕たちの負担を減らすために」
「どういうことだ」
「あなたには言っておいたはずですよ。つまり、涼宮さんに変なことを思いつかせないよ
うに、あらかじめ彼女に娯楽を 提供しようと言うことです。当分、涼宮さんは今回の事
件で頭がいっぱいになるでしょうから」
 ハルヒは俺たちが犯人になってしまったと思い込んでいるようだが、それでいいのか?
 あの後、ハルヒは妙におとなしくなっていた。何かを考え深げでもある。不気味だ。
「では予定を繰り上げますかね」と古泉は言う。「こっちの計画では、フェリーで本土の
港に 戻ったときに多丸圭一、裕 氏の両名と新川さん、森さんの計四人が出迎えてニッコ
リ----というオチを用意していたのですが。もちろん『機関』のことは伏せて僕の親類と
いうところ はそのままですが」
 マジでサプライズパーティだったわけだ。
 俺は溜息をつく。その冗談がハルヒに通用するといいんだが、もしハルヒがマジギレし
たらお前が押さえ込めよ。俺は 逃げるからな。
 古泉は片目を閉じて微笑んだ。
「それは大変ですね。早めに謝っておいたほうがよさそうです。多丸氏ともども、頭を下
げに行くとしますか。死体役も そろそろ疲れる頃合いでしょう」
 俺は黙って窓の外へ視線を飛ばした。
 ハルヒはどうするだろう。騙されたことに怒り狂うか、素直に趣向を楽しんで笑い転げ
るか。いずれにしろ、今のどっ ちつかずな精神状態はもっと解りやすい方向に向かうだ
ろうが。古泉の苦笑を滲ませた声で、
「刑事や鑑識役を演じる予定になっていた方々もいたんですが、せっかくの準備が無駄に
なりましたね。にしても、こん な淡泊な終わり方をするとは想定外でした。本来なら屋
敷内の捜索とか現場検証とかも予定表にはあったのですが……。上手くいかないもので
す」
 それだけ考えが足りなかったからだろうさ。
 曇り空を眺めながら、この天気は数時間後にどのような晴れ模様になるだろうかと俺は
考えていた。

 結果として、古泉から副団長の肩書きが取られることはなかった。台風が大急ぎで一過
した青空の下、 帰りのフェリーの中でハルヒは終始ご機嫌さんであり、駅前で全員解散
になるまでそれは持続していた。シャレをシャレとして楽しめるだけの頭がハルヒにあっ
てよかったことだな。
 その代わり、古泉は船内の売店で人数分の弁当と缶ジュースを買わされてはいたが、そ
れですんで安いもんだと俺は思 う。
 おそらく最初からすべてを知っていたらしい長門は慎ましく無反応を守りきり、気絶か
ら醒めた朝比奈さんは「ひどい ですー」と可愛く拗ねて見せたが、古泉と多丸兄弟、及
び使用人役の二人が頭を下げるのを見て、「あ、いいです。気にしてませんからっ」と慌
てて謝り返して いたことも挿話として付け加えておく。
 ところで、本土を目指すフェリーのデッキで全員の集合写真を撮ろうと並んでいたとき、
ハルヒはこんな注文を付けて いた。
「冬の合宿も頼むわよ、古泉くん。今度はもっとちゃんとしたシナリオを考えておいてよ
ね。今度は山荘に行くんだか ら。それから大雪が降らないとダメだからね。次こそはこ
れぞってくらい館っぽいのじゃないと今度は怒るからね。うん。今からとても楽しみだ
わ!」
「ええと……、どうしましょうね?」
 まるで第二次世界大戦末期のヨーロッパ西部戦線に送り込まれたあげく一個分隊で連合
軍の総大将を生け捕りにしてこ いと総統直々に命令された新米ドイツ軍士官みたいなあ
やふやな笑みを形作り、古泉は救いを求めるような顔を俺に向けてきた。
 俺は同点で迎えた優勝決定戦のロスタイムに味方ゴールへファインシュートを放った
ディフェンダーを見るような目を しつつ、心にもないことを言うことにした。
「さあな。俺も期待してるぜ、古泉」
 せめて俺に見抜かれるような、しょうもないオチでないことくらいは期待してやっても
いいだろう。
 日常に退屈したハルヒが、非日常な現象を発生させないためにも。

あとがき

 詳しい事情は解りかねますが巻末にあとがきが載るのは風が吹けば桶屋が儲かるくらい
に疑念の余地もないほどデフォ ルト仕様のようであり、なおかつ「何ページ書いてもい
いですよ」と狂喜乱舞するようなことまで言っていただけたのですが、それはまたの機会
に譲るとして、 今回はせっかくですので収録された各話ごとにあとがきじみたものを書
いてページを埋めたいと思います。
 全体的な感想としては、「一年が経つのは早いが二ヶ月が経過するのはもっと早い」と
いう、死ぬほど当たり前のこと に終始することになるので割愛し、以下つれづれなるま
まに。

「涼宮ハルヒの退屈」
 表題作にしてSOS団の連中が最も早く活字となったのがこれでありました。確か「涼
宮ハルヒの憂鬱」が世に出る 二ヶ月ほど前にザ・スニーカーに掲載されたんじゃなかっ
たでしょうか。
 いくら何でも本編が出る前に後日談を載せるのはいかがなものかと一人不安になってい
たのですが、そのような些末な 心配をしていたのはまさに僕一人であったらしく他の誰
も疑問を持っていなかったようなので一安心です。なにせひたすら勢いのままに書いてし
まった話しなた め、これまたいいのでしょうかと心配していたのですが、結局どこから
も誰からもいいとも悪いとも言われず少なくとも僕の耳には届かず、じゃあまあいっかと
自分を慰めている次第です。
 ちなみに僕が人生で草野球に参加したのは、記憶にある限りでは十回もありません。フ
ライの捕れないセカンドとして ザルの名を欲しいままにしていたのは言うまでもないで
しょう。ヒット打った記憶もないことに今更気付き、遅まきながら愕然としています。

「笹の葉ラプソディ」
 最初につけた仮題は「朝比奈みくるの困惑」というものでした。それじゃイマイチシ
リーズタイトルが解りにくいとい う話だったので、このようなサブタイトルになりまし
た。この時はまさか読み切り短編の掲載が続くとも思っておらず、雑誌掲載時の最後の
ページに「次号に続 く」みたいなことが書いてあって仰天した覚えは鮮明に残っていま
す。
 いちおう未来人がいるんだし、タイムトラベルの一つもしないと話になるまいと思いつ
つ書きましたが、このエピソー ドが次巻以降のなんとなく伏線っぽいことになりそうな
気配に----なって欲しいとぼんやり考えています。
「ミステリックサイン」
 わけあってアイデア出しから書き終えるまでの私的最短時間記録を作ったように思いま
す。いったい連中に何させま しょうかねえと言いながら、気付いたらこんな感じになっ
ていました。この辺りからシリーズタイトルそのものを「がんばれ長門さん」にしようか
と思い始めた のですが、それだとストーリーがまったく動きそうになかったので断念し
ました。でもまあ、メンツの中では一番活躍してくれそうなキャラではあります。我な
がら期待しています。いやホント、頼むよ長門さん。ところで眼鏡はどうしましょう。
あったほうがいいのでしょうか。
 コンピュータ研部長にももうちょっと活躍していただきたいところですが、今のところ
漠然とそう思っているだけなの でどうなることかと。

「孤島症候群」
 本当は「ミステリックサイン」よりも前に書き始めてて、こっちが掲載される予定にま
でなっていたのですが、書いて いるうちになぜかどんどん長くなってしまうという自己
責任による諸事情で文庫のオマケ書下ろしという体裁になりました。そんなわけでこの本
の収録作品で最 も長いページ数を誇るという、なんとなく帯に短しタスキに長し的なオ
マケとなってしまい、反省するところ大であります。いつもどうにかしようと思ってるん
ですが、思うだけなら楽勝であって実際に思い通りになることなど人生振り返ってみても
数えるほどしかありません。そのような理由により現在の僕は脳ミソが アメーバー状に
なっています。
 誰か僕を孤島の豪華宿泊施設に一週間ほど泊めてくれないものでしょうか。証人の役く
らいならなんとかこなせないこ ともないと思います。ほぼ一日中眠っていることでしょ
うが。

 こんな感じで三巻目を出していただくことができました。これもひとえに皆様のおかげ
であると申せま しょう。皆様のところには本当に様々な方々の名称や役職やニックネー
ムをルビにして並び称したいのですが、とにかく不特定多数の読者様を含め僕が知ること
のできた方々や名を知りようもない方々すべてを含む皆様ですので、とうてい記載し切れ
るものではなく、伏してお詫び申し上げつつ厚く御礼申し上げます。

角川源義

 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化の敗退で
あった。私たちの文化が戦争に対 して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかった
かを、私たちは身を以って体験した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳
月は決して短すぎ たとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な
批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗してきた。これ
は、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。
 一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされ
た。これは大きな不幸ではある が、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我
が国の文化と秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある。角川書店は、この
ような祖国の文 化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とを
もって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行
されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心
的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くの ひとびとに提供
しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的
とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示 し、この文庫を角川書店の栄ある
事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期し
たい。多くの読書子の愛情ある忠言と 支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめ
られんことを願う。

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